ヒの工合で、重な会社の船ぐらいは識別出来るようになった。ことにNYK――日本郵船の船は直ぐにわかった。私たちは、沖を左から右へ、日本から倫敦《ロンドン》へ往く途中の船を見ては、希望とあこがれに燃える故国の人々を載せているであろうことを思い、その反対に右から左へ、倫敦から日本へいそぐ復航船を眺めては、私たちもやがて、日本へ帰る日のさして遠くあってはならないことに、今更のように気づいた。そして、それらの日本船に乗ってポルトガルの沖を過ぎる人々のうち、船から見える海岸のホテルの一室に私たち日本人夫婦がもう一月の余も住まっていて、いまもこうして望遠鏡を向けていようなどとは、誰ひとりとして考える人もあるまい。こんなことを話し合って、まるで島流しにでもされているように、私達は淋しい気持ちになったものだった。
で、近いうち、あの船の一つに乗って、この沖を通って日本へ帰ろう――いつしか二人のあいだに、こういう暗黙の契約が成立してしまっていた。
じっさい、日本を出てから、その時で既《も》う一年近く経っていた。したがって、もう一度出直して第二次的な土地を廻ってみることにしても、今度はこれで切り上げてともかく日本へ帰りたいという気が、私たちには強かった。それが、葡萄牙《ポルトガル》エストリル沖を過ぎる船によって、こうして無意識に刺激されたのだった。
それから、モンテ・カアロで新年を迎えて、一月の末から二月へかけて、私達は南|伊太利《イタリー》のナポリにいた。ホテルは海岸まえの「コンテネンタル」だった。しかも、二階の私たちの部屋の直ぐ下が、あの、海に突き出ている有名な「|卵子の城《カステロ・デル・オボ》」で、その向こうの水面を、ここでも毎日、東洋通いの巨船が煙りを吐いて通った。なかでもNYKの船は一眼で判った。丸の字のついた名の船がよく桟橋に横付けになったり、小雨のなかを出港して行ったり、這入って来たりしていた。ポンペイを見物に行った日などは、あの、狭い石畳の死都の街上で、その寄港中の船の一つから下りたらしい何十人もの日本人の団体を見かけた。すでに漠然と決まりかけていた私達の帰国ばなしは、このナポリで日本の船を眼近に見ることによって急天直下的に具体化したのだった。私たちは、明日にでも帰るような気になって、代理店《エイジェント》へ出かけて、倫敦《ロンドン》横浜間のNYKの航海予告を調べ
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