、それから、いうなら言うことだ――羅馬《ローマ》は、羅馬時代から、さまざまの名文句で混み合っています。』
『あなたは、何か大変な感違いをしているらしい。』
『そうでしょうか。ここはピサですね。』
 ピサの斜塔が、星を撫でて、真夜中の地上に接吻しようと骨を折っていた。
 一時に濃度を増した闇黒が、汽車を押し潰そうと、窓の外に犇《ひし》めいた。
 彼女は、そのなかに隠された小さな声を、懸命に聞き取ろうとしている様子だった。
 やがて、何か重大事に想到したように、彼女の眠が、細くなった。
『し――いっ!』
 と言うのである。
 彼女は、人差指を立てて、口唇《くちびる》へ当てた。その口びるは、指と十字を作って、横に固かった。
 そして、彼女は、敷いていたアストラカンから、徐々に起立した。と同時に、手が伸びて、車扉《ドア》の横にスイッチを探した。
 小さな音を合図に、車室が、今までの緑色の薄明から、完全な暗黒へ転落した。
 私は、私の全神経の騒ぐ音を聞いた。暗いなかに、ほの白い彼女の裸体が、窓の方へ走るのを見た。そこには、若いルセアニアの商人が、彼の|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》とともに、平和に
前へ 次へ
全67ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング