を営んでいました。すると、当時、中部|伊太利《イタリー》のフシイノ地方に、ラルゴ湖という湖水があったのですが、この湖を、時のトロニア氏が、大金を投げて埋めにかかりました。多分、その湖の大きさだけの領土を持とうとする中世紀らしい発案だったのでしょうが、それは、まるで、金銀で湖水を埋立てしようとするようなものです。夥しい人夫と土砂と支出を負担して、トロニア銀行は、今にも潰れそうになりました。そこで、華やかだったその時代の人々は、手を拍《う》って喜びました。銀行が湖水を潰すか、湖水が銀行を潰すか――つまり、この文句の意味と用途は、危なっかしいことだが、どっちが勝つか、傍観していて、面白い見物だというのです。ところが、この場合は、銀行が勝ちました。とうとう初代トロニア氏が、一八四二年から七〇年まで掛って、その湖を埋めたのです。そして、埋められた湖水の跡は、今では、伊太利で最も豊沃《ほうよく》な農園地の一つとして、知られていますし、埋めたトロニア家には、その時から、この功によって、公爵の位が与えられました。トロニア公爵一世は、ラルゴ湖征服のお祝いを、竣工の年の九月二十日に、いまのベニイの家で催しました。それは、実に盛大極まるものでした。欧羅巴《ヨーロッパ》の近世史上に、第一の宴会として伝えられています。この祭典は、昼夜三日続きました。羅馬《ローマ》市とその近郊が、全精神を挙げて参加しました。最初の日には、法王と、バヴァリアからは、王様の一行が乗り込みました。二日目には、羅馬の市民が、全部招待されました。父母の記念にと言って、新公爵は、オッソラから埃及角塔《オベリスク》を担ぎ込ませました。公爵家の紋章で美々《びび》しく装われた三十三頭の牛が、羅馬の街上に、その尨大な石材を牽《ひ》いて、ノメンタナ街の邸《やしき》へ練り込みました。その家が、いまベニイの私生活と、彼の夢のうらおもてを知悉《ちしつ》しているのです。で、同じことが言えないでしょうか。人は、自分の利器に一番注意すべきです。ベニイがファッシズムを潰すか、ファッシズムがベニイを潰すか――。』
 明け方は、睡眠の満潮時だ。
 彼女の饒舌が、受動的に働いて、いつしか、私の意識をぼや[#「ぼや」に傍点]かしたに相違ない。
 私は、二人をその儘《まま》にして、眠ってしまったのだ。それが、何時間だったか、私は知らない。咽喉《のど》が乾いて、身を起したとき、私は、停車している車室のカアテンに日光の波紋を見た。
 そして、外には、羅馬停車場《ローマスタツィオネ》の喧噪な構内が、静止していた。
 が、コンパアトメントは、私だけのものだった。そこには、国際裸体婦人同盟員と彼女のアストラカン外套も、若いルセアニアの商人と彼の|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》も、見られなかった。あるのは、ただ、ルセアニア人が残して行った微かな竜涎香《アンバア》の薫りと、一晩中密閉されていた彼女の体臭とが混合して、喫煙室のそれのように、重く揺らいでいる空気だけだった。
 二人は、到着と同時に汽車から走り出て、急いで、ホテルへ向ったのであろう。真面目顔のホテルの番頭《クラアク》は、二人を夫妻として登録して、一室の鍵を渡すだろう。微笑が、寝不足の私を軽くした。
 私は、酸素を要求して、窓を開けた。
 金色《こんじき》の風が、歓声を上げて、突入した。何と、爽やかな羅馬《ローマ》の朝!
 私は、ここで、歴史の真ん中へ降り立つのだ。
 直ぐにナポリ行きへ乗換える人や、朝だちの旅客のために、プラットフォウムには、駅売りの呼び声が縦横に飛び交していた。
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あっか・みねらあれ!
あらっち・まんだりいね!
しがれって!
ちょこらって!
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     6

 ホテルの私の部屋で、電話の鈴《ベル》が私を驚かしたのは、その日の午後だった。
 電話は、女の声だったので、私は、紳士として、部屋着の襟を合わせた。
 接続線の向端《むこうはし》に、アストラカンの外套がちら[#「ちら」に傍点]ついているような気がした。どうして私が、それを感知したのか、また、いかにして彼女が、私のホテルを突き止めたのか、これらは、完全に私の理解の外部にある。とにかく、それは、国際裸体婦人同盟の熱心な会員でもあり、同時にまた、反ファシスト派の巴里《パリー》機関紙「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」の論説部員として、今朝《けさ》死を賭して、この「|久遠の街《イタアナル・シティ》」へ潜り込んだのだと信ずるに足る、あの、彼女からの、あわただしい電話だった。
 受話機から、昨夜《ゆうべ》の声がこぼれて、私の足許へ散らばった。
『私は、尾行されています。いま、何よりも男の方の守護が必要なのです。』
 そして、直ぐに私に、国民大街《ヴィア・ナツォナレ》
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