ばなりません。ベニイの家は、その近くから始まっています。それは、白い、高い石塀の上から、巨大な赤松の林立が、周囲に、森のような影を落していることによって、直ぐに判別されます。正門は、角軒灯と石材との威嚇的効果です。お上品な砂利道と芝生の向うは、神秘そのもののような建物の散在です。そして、勿論、全体の空気には、まるで、王宮のように、そのあちこちに、大きく「禁止」と書かれてあります。邸内には、ヨニック式の礼拝堂があります。円形野外劇場《アンフィセアタア》もあります。埃及角塔《オベリスク》もあります。この邸宅は、トロニア公爵《プリンチペ》の屋敷《パラット》として、羅馬《ローマ》名所の一つなのです。』
『それが、どうして、ベニイ住宅になったのですか。勿論、例の、国際的な猶太《ユダヤ》人の覆面資本団からでも貰った金で、買ったのでしょうね。』
『ところが、そうではないのです。今のトロニア公爵は、この前の駐英大使でしたが、その母親という人が非常なべニイ・ファンで、或る猛烈な感激の瞬間に、このノメンタナ街の家を、土地ぐるみそっくりベニイに贈呈したのでした。で、ベニイは、毎日ここからクイリナアレ庁へ出かけているのですが、その出入は、数度の奇襲に懲りて、じつに厳戒を極めています。毎日、彼の自動車と、往復の通路とをいろいろに取り換えて、眼に付かないように努めています。そして、夜も昼も、塀の外には、私服刑事の一隊が、普通市民の散歩者に混ざって、何気なさそうに逍遥しています。がベニイ自身は、いつも、運命を自分に有利なようにだけ仮定していて、しかも、絶対にそれを信ずる心が強いのです。ですから、どこへでも公衆の場所へ出掛けて行きますし、万一のことがあってはと、みんなが停めるのも肯《き》かずに、旅行は、すべて飛行機と決めています。公用は勿論、土曜から日曜にかけて、ちょっとフリウリ村へ家族に会いに行くにも、ベニイは、飛行大臣として、飛んでいくのです。しかし、彼は、運の好《い》い男で、軽い事故さえも、まだ経験したということを聞きません。暗殺も、今までのところでは、すべて失敗に終りました。一度は、胸の勲章が彼を救ったほどの、|狭い逃亡《ナロウ・エスケイプ》でしたけれど。』
『情婦があると言うではありませんか。』
『事実です。マリア・セラファチといって、ちょっと原稿なんかも書く女です。彼女の著したベニイの伝記もあります。が、さあ、同棲しているんですかどうですか――。』
 彼女は、先刻から、ルセアニア人から接吻を盗み続けていた。そして、この時も一つ、濡れた音響と共に、肥ったのを奪《と》った。
 しかし、ルセアニア人は、眠っているのではなかった。彼は、この、不可思議な受難の夜を、羅馬《ローマ》まで甘受して往く覚悟が、もうすっかり出来たとみえて、彼女の肩の上に据《す》わっている彼の眼が、平静に私を凝視していた。そのうえ彼は、出来るだけ二つの身体を揺れさせないように、それを自分の責任として、一人で汽車の震動と争っていた。それらのことが、闇黒にも係わらず、私には、よく見えるのだった。
 暁《あかつき》と羅馬《ローマ》とが、線路の末にあった。
 それを眼当てに、汽車は、一層勇躍した。
 加速度の廻転で灼熱したピストンが、足の下に、熟く感じられた。
『時間通りに、羅馬へ這入りそうですね。』
 彼女が、観察した。
『伊太利《イタリー》の汽車が、時間を守るなんて、私達は、これだけでも、ベニイの功績を認めべきではないでしょうか。それから、第二に、名物の乞食が姿を潜めたこと。』
『みんな、役人や兵隊になったのです。そのうちで、よほど哲学的な連中だけが、ヴェニスへ集まって、停車場の前で日光浴をしています。客がゴンドラへ乗ると、その舟べりを押さえて、銅貨一枚《チェンテズモ》を受け取らないうちは、どんなことがあっても、ゴンドラを岸から離さないのが、彼らの職業です。彼らはまた、その時貰う銅貨の多寡によって、ゴンドラの上の外国人を、自由に呪ったり祝福したりすることも出来ます。彼らは、その一|仙《セント》二|仙《セント》で、直ぐに紙巻煙草を買うのです。煙草屋では、特に彼らのために、煙草の袋を切って、一本でも、二本でも、分けて売っています。』
 彼女の好物の一つに、格言があるらしいことが、間もなく、私に解った。
『あなたは、伊太利《イタリー》でよく使われる、こういう文句を御存じですか。「銀行が湖水を潰すか、湖水が銀行を潰すか」と言うのです。ベニイが、この出典に、幾らかの関係を持っています。いまベニイのいる、トロニア屋敷《パラット》の先の所有主、トロニア公爵《プリンチペ》の先祖の出世物語なのです。一八〇〇年代の始めでした。その頃まで、まだ、ただの平民の富豪に過ぎなかったトロニア家は、羅馬《ローマ》で銀行
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