ですから。』
 ルセアニア人は、彼女が裸体であることを忘れて、肘を突いた。
『あなたは、つい今し方、あんなに自分の不注意を悔いて、密偵を警戒すると誓ったではありませんか。私達は、単純な旅行者なのです。あなたの軽卒によって、馬鹿々々しい悶着への同伴になりたくはないのです。もうすこし、気を付けて戴けないでしょうか。』
『うっかり昂奮していたものですから――。』
 この注意に対して、彼女は、意外に簡単に収縮した風だった。国際裸体婦人同盟員が、はじめて自分の裸体を意識したように、緑色の肉体が、眼に見えて、動揺した。それには、汽車の震動ばかりと思えない、何か内容的なものがあった。
 が、彼女の精神は、印度護謨《インドごむ》で出来ているに相違なかった。それ程の強靭性を実証する言行に、次ぎの瞬間の彼女は、大飛躍していたのだ。
 ルセアニア人に対する彼女の反撥は、もう一度、例の、彼女のお得意の詩句の暗誦によって先駆された。
『Non dir di me, setu di me none sai. Prima pensa perte eppoi drai. 私を知らずに、私のことを言うな。第一にお前自身、それから、いうなら言うことだ――羅馬《ローマ》は、羅馬時代から、さまざまの名文句で混み合っています。』
『あなたは、何か大変な感違いをしているらしい。』
『そうでしょうか。ここはピサですね。』
 ピサの斜塔が、星を撫でて、真夜中の地上に接吻しようと骨を折っていた。
 一時に濃度を増した闇黒が、汽車を押し潰そうと、窓の外に犇《ひし》めいた。
 彼女は、そのなかに隠された小さな声を、懸命に聞き取ろうとしている様子だった。
 やがて、何か重大事に想到したように、彼女の眠が、細くなった。
『し――いっ!』
 と言うのである。
 彼女は、人差指を立てて、口唇《くちびる》へ当てた。その口びるは、指と十字を作って、横に固かった。
 そして、彼女は、敷いていたアストラカンから、徐々に起立した。と同時に、手が伸びて、車扉《ドア》の横にスイッチを探した。
 小さな音を合図に、車室が、今までの緑色の薄明から、完全な暗黒へ転落した。
 私は、私の全神経の騒ぐ音を聞いた。暗いなかに、ほの白い彼女の裸体が、窓の方へ走るのを見た。そこには、若いルセアニアの商人が、彼の|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》とともに、平和に暮しているのである。
 私は、同室者として、彼の身の上を案じた。果して、国際裸体婦人同盟員は、ルセアニア人と、出来るだけ同じ空間を満たすべく決心したらしい。彼女は、その「服装」で、若いルセアニア人を、いきなり私の前から隠してしまった。
 ルセアニア人は、死んだルセアニア人のように、彼女の体重に耐《こら》えて、声も立てなければ、身動き一つしないで、牧師のようにきちん[#「きちん」に傍点]と腰かけているのだ。それが私を笑わせた。
『何が、可笑《おか》しいのです。』
 彼女の声だった。そして、それは、直ぐ、この自分の突飛な行動の事後説明に取り掛った。
『これに、すこしも性の意味がないとは、私は言いません。幾分あるようだからです。しかし、本能の処理は、恋愛とは全然別なものです。恋愛は、本能の享楽であり、処理は、どこまで往っても事務だからです。ところが、近代に到って、この本能の処理に、色んな思想や文学や都会生活やの扮飾が加えられて、それは、一見恋愛と同じ外観を備えるようになりました。その結果、この二つは、事実非常に紛らわしいために、現代人は、両方を一緒にしたり、本能の処理を恋愛と思い込んだりしています。つまり、本能の処理が、いつの間にか恋愛に接近するほど、それは、多くの装飾的な外面を持ち出したのです。けれど、二者の運命的な相違は、装飾恋愛の享楽性は、対者を条件とする内容にあるのに反し、本能の処理におけるそれは、要するに附帯物の作り出す一時的錯覚に過ぎないということです。では、一体何が、本能の処理に、これほどたくさんの夾雑物《きょうざつぶつ》を投げ込んで、近代人を惑わしているかと言うと、ここでも、資本主義の天才的狡猾さが、もう一度責められなければなりません。資本主義は、その蓄積した余剰価値の発散をこの方向へ集中して、こうして人の眼を眩惑し、それによって、すこしでも長く自分への人心を繋《つな》ぎ留めて置こうと計っているのです。おきまりの補助的方法が、また一つ、見事に成功したわけです。が、その手を直ちに逆に使って、私達は、この資本主義の奸手段に対抗することが出来ます。それは、その資本主義の煽動に乗じて、資本主義が一番大事な味方にしている道徳《マラリティ》を衝くことです。言い換えれば、与えられたあらゆる機会に、本能の処理を享楽するのです。実際、私達は、どんなにそれを享楽しても構いませ
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