前の空《あき》椅子へ招待するのに任せた。銀灰色の細毛の密生した彼の手首に、六種の色彩の大理石を金で繋《つな》いだ鎖が掛かっていた。その小さな大理石の一つは腕時計だった。が、それにしても、この装身法は小|亜細亜《アジア》的に野蛮で、感心出来なかった。しかるに、彼の口からは、倫敦《ロンドン》リジェント街とピキャデリの角の英語が、尻上りの粋《すい》さをもって滑り出るのである。
 ルセアニア人は、私に、昔からここで、伊太利《イタリー》側から仏蘭西《フランス》側へ輸出して来た切花に、最近ふらんすが七割の税を課することにしたために、もとは、わざわざ昼間の汽車を選んで窓から見て行く人もすくなくなかった、国境と線路に接続した伊太利の花卉《かき》園が、
今では、見事に寂《さび》れてしまったと告げた。
『毎朝の化粧台に、変った花束を発見しないと一日頭痛のする大ホテルの婦人客達は、値段など聞かないうちに、濡れた花びらに鼻を近づけるものです。だから、いくら殺人的に高価であっても構わないわけですが、そこへ行く先に、七割の関税と聞いて、市場が手を引っ込めてしまいました。それかと言って、仏蘭西《フランス》側に新たな花園が拓《ひら》かれたでもありません。国境一つで全然地質が違うと見えます。このことは始めから判っていたのですから、七割税には、すこしも保護政策の意味は含まれていないのです。ただ伊太利《イタリー》の切花業者と園丁から長年の生活を奪って、そのかわり、彼らに、多くの悲劇と家庭の解散を与えたに過ぎません。あり余る者から取るつもりで、結果は、無いものをますますなくさせる。じつに合理的な政策です。が、伊太利だって文句は言えません。内政干渉と来ますし、それに、交換条件でも持ち出されちゃ嫌ですからね。どこでもそうであるように、ブルジョア政府同士の交渉の前には、郷土的利福なんか、花だろうが何だろうが、どんなに蹂躙《じゅうりん》しても構わないのです。そこでつまり、両方の政府が仲よく笑い合って、ここら一帯を荒土にしました。ちょうどあの辺が、先頃まで一番素晴らしかった花畠のあとです。』
 窓へ伸ばした彼の指先で、シシリイ島人らしい半黒の一家族が、スウプ汁から驚いた顔を上げた。
 それから私は、彼との食卓で、伊太利《イタリー》バムウスを舐《な》めて、赤|茄子《なす》入りのスパゲテは、いったいいかにして肉刺しへ巻きつけて、どうしたら一本の大匙《おおさじ》の補助だけで最も能率的に口へ送り込むことが出来るか、その術を習得した。そして、ルセアニア人と私と二人の煙草の明りで、私は、国内電報になるのを待って今まで控えていた羅馬《ローマ》の宿屋《アルベルゴ》への電報を書いて、それを給仕に打たせるのに、発車までの残りの時間の全部を費やした。
 国境通関業者の制帽が、暗黒のなかで呪文を大唱した。
『ジェノア・ピサ経由、羅馬《ローマ》行き急行! 羅馬ゆき急行!』
 これが、私達をナプキンから引き離した。
 停電のプラットフォウムには、緑と赤の灯の玉があった。
 煤煙。蒸気。光線。万国寝台会社|欧羅巴《ヨーロッパ》特急車が、傲慢で伊達者な潜勢力を押さえて、駅長《カピタノ》の笛を待っていた。明るい窓が、先へ往くほど小さく、長く続いていた。旅行の精神と、遠い都会の誘惑とが、人々を占領した。そこにもここにも、出発前の上吊《うわず》った声と、着物の擦《す》れ合う音とがあった。騒乱の中から、さっきの荷物運搬人が現われて、予約してある寝台車へ私を救助した。またルセアニアの商人と同じコンパアトメントである。私達は短衣《ヴェスト》の扣鈕《ボタン》を突つき合って、大笑いした。
 汽車が、停電中のヴァンテミイユを見棄てた。雪の帽子をかぶった山頂が、仏蘭西《フランス》の空に吸収された。車体が軋《きし》んで、その隙間から、水の香《かおり》が流れ込んで来た。それによって、私達は、また地中海が私たちを追跡しているのであることを知った。
 ジェノアは、真夜中に擦過するに相違ない。ルセアニア人は、巴里《パリー》ラプレ商店製の印のある靴を脱いで、その茶絹《ちゃぎぬ》に包まれた、バブイノ街の石膏細工のような恰好の好い足で、車室の深紅の絨毯を撫でた。

     2

 車輪とレイルとの摩擦による火気が、鉄材を伝わって、上って来るのかも知れなかった。室内は、莫迦げて暑かった。そのために窓の硝子《ガラス》が膨脹して、白い汗を流した。で、私達は相談して、入口の扉《ドア》を開け放して置くことに合意した。
 恐ろしい転轍の技能だった。その度《た》びに、列車は何|米《メートル》かを飛行した。窓掛けが散乱した。衣裳鞄が踊った。脱いであるルセアニア人の靴が、ひとりでに歩き出した。私達は、空気を抱擁しようとして、何度か失敗した。
 鈍い音を立てて
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