各国のあらゆる新聞雑誌記者と、外国での記念《スウベニア》という他愛もないがらくた[#「がらくた」に傍点]を熱愛する旅行者の大訪問群によって、一日に何十回の面接と談話とで、すっかり職業的に荒らされてしまっているに相違ないことは、誰でもの常識内で許される想定だ。その彼を、すこし時節外れのこの頃になって襲撃するほど、私は、「去年の林檎《りんご》」でありたくない気が強かった。私は、常に明日に生くる自負を持っている。この意味で、いま話頭に上っている「今日の人」は、それだけで、私の感興を惹くべく既にすこし古いのだ。それに、英雄崇拝という変態宗教は、私に来るところの最後のものである。だから、私は、半ば以上、この「黒|襯衣《しゃつ》を着た世紀の怪物」を、一瞬間でも邪魔することなしに、彼を、彼の大好きな首相、外相、飛行大臣、拓殖大臣等々々の七つの大臣椅子の上に、彼の讃美者に取り巻かせたまま、幸福にしておいてやることにしようと決心していた。そのかわり私は、羅馬《ローマ》のホテルの酒場で、アルコホルが語らせる旅客の伊太利《イタリー》観から、より多くの真実を掴み出そうと耳を立てるであろう。そして、どこの都会ででもして来たように、私は、この鞄の底から放浪者の仮装一式を身につけて、幾晩も続けて臭い裏街の彷徨に徹夜するだろう。私は、ベニト・ムッソリニよりも、このほうを好むのだ。
 こういう言葉で、私は、しっくりと彼女の裸体を包んだ。
 多くの社交室をこな[#「こな」に傍点]して来たらしい、噴水式の彼女の笑いには、私に対する失望と賛成があった。彼女は下腹部の黒子《ほくろ》を押して、その弾力を享楽しながら、言った。
『あなたは素晴らしい空想の所有者です。そして、この場合、その空想は適中しているかも知れません。私は、ただ、巴里《パリー》への旅行者が、必ず一度はエッフェルへ昇るように、羅馬《ローマ》へ来る人は、初代|基督《キリスト》教徒の地下街《カタコンブ》と、カプツィニの人骨堂と、ベニト・ムッソリニだけは、誰でも、旅程の第一日に据えて参詣して行くものですから、きっとあなたも、クイリナアレ政庁への訪問者に相違ないと思ったまでのことです。あなたが、伊太利《イタリー》へ来てムッソリニを無視するのは、それだけでも、あなたの公衆にとって大きなセンセイションでなければなりません。実は、一人ぐらいムッソリニに会いたくないという旅行者が出て来ることを、私は、ひそかに望んでいたのです。』
『なぜそのことが、そんなにあなたの関心を強いますか。』
『私の性格が、すべて反対を好むからです。全く、ムッソリニは誰にでも合いますし、また誰でも、外国から来た人は、彼に会いたがるようです。どうして、あんな立憲政体の変態者が、こんなにまで反動主義者の世界的賞讃を博するようになったのでしょう? きっとそれは、彼が社会主義への裏切者であるからに決まっています。私には、ほかに正しいと思われる答案が発見出来ないのです。野蛮なほど自信と精力の強いブルジョア政治家なら、どこの国も、彼以上の紳士的悪漢で一ぱいで、それぞれ持て余しているはずではありませんか。伊太利だったからこそ、彼も、羊の群の獅子として、その自己集権慾を満足させることが出来たのでしょう。要するに、彼は、人気を取っていないように見せかけて人気を浚《さら》ってしまう、顔の怖いお上手者に過ぎないのです。私達には何らの関係もない、古風な、過失的存在です。』
『僕は、彼は東洋人ではないかと思う。』
 ルセアニア人が、逡巡《しゅんじゅん》しながら、割り込んだ。彼女が、受け取った。
『東洋人ではありますまい。しかし、彼の顔には、純粋の白人らしくない暗示が見られます。』
『と言うと、どういう意味ですか。』
『彼の奉ずる力の讃美には、もっと太陽に近い土地の、砂漠と大植物との、黒色の哲学が潜んでいるような気がしはしませんか。』
『立派にあり得ることです。伊太利《イタリー》、西班牙《スペイン》、葡萄牙《ポルトガル》などの、南|欧羅巴《ヨーロッパ》の羅典《ラテン》系文明が、近世に到って一足遅れたのは、奴隷として輸入された黒人の血が、雑婚によって吸収されたためだと言う説があるくらいですから。血統のどこかに、飛び離れた異人種を持つ家は、往々にして巨人を出すものです。』
『爪を見れば、判るそうではありませんか。』
『しかし、ムッソリニという名は、古い伊太利名です。「ムッソリニ」は普通名詞のモスリンから転化したもので、つまり、彼の家は、職業世襲時代に、代々モスリンの織匠だったのでしょう。』
『そういうことは、私の国の日本にもあります。ちょうど、ムッソリニと同じ語源に、織部《おりべ》というのがある。』
『とにかく、先刻《さっき》私が言ったように、彼は誰にでも会います。亜米利加《ア
前へ 次へ
全17ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング