分は、この通り精力に満ちていると言いたいために、彼女は、歩きながら、針金細工の人形のように手足を張って笑い出した。
 一七六〇年|開店《フォンダト》のキャフェ・グレコが、その金文字入りの扉《ドア》で、私達に敬礼した。「車《ワゴン》」と呼ばれている、奥まった細長い部屋に、その家の財産の、古い、汚い一個の卓子《テーブル》があった。卓子は、マアク・トウェイン、ビョルンソン、ゴウゴル、ゲエテ、グノウ、ビゼエと言った詩人《ポエタ》達の、手垢と、楽書《らくがき》と、小刀《ナイフ》の痕とで、有名に装飾されてあった。その上で、彼女は、常食と称して、牛乳に蜂蜜を落して飲み、私は、また、彼女の雑談の続きを食べた。
 配達に来た郵便脚夫を見て、彼女は、私に私語した。
『あの男が、私を尾行しているのです。』と。
 彼女の音盤《レコウド》は、まだまだ切れなかった。
『選挙の準備と、その妨害の秘密戦は、いよいよ白熱化しつつあります。あなたは、この三月の総選挙が、ファシスト政府の新しい選挙法によって行われる、全く特殊のものであることを、知らなければなりません。まず、一千の地方労働組合から、四百人の準候補者を推薦させて、それを、ファシスト最高幹部会の評議にかけます。ファシスト最高幹部は、五十二人から出来ています。羅馬《ローマ》進軍当時の四人の将軍、ファシスト革命直後三年間の大臣と次官、一九二二年以後のファシスト事務総長、国民軍指揮官、学士院長、国防特別裁判所長、総組合長《シンダカト》などです。そこで、この最高幹部会で、取捨選択して、すっかり定員数の候補者を決めてしまって、その全体を、最後に、いっぱん一千万人の投票に問うのです。人々は、午前七時から午後七時までの間に出かけて行って、投票します。投票紙には、然《シイ》・否《ノウ》という二つの実に明白な文字が、印刷してあります。そのどっちかを消して、投票箱へ入れればいいのです。つまり、個々の候補者に投票するのではなくて、既にファシスト最高幹部会で決定した、その全部の顔触れに異存があるかないかを、投票するのです。そして、一体どこに、ファシスト最高幹部会の決議に反対するほどの、好奇な冒険家がいますか?――これは、何という、見事な選挙でしょう! 何という、優れた世紀の冗談でしょう! 何という、天才的な手数の簡略でしょう! あなたは、そうはお考えになりませんか。
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