きつけて、どうしたら一本の大匙《おおさじ》の補助だけで最も能率的に口へ送り込むことが出来るか、その術を習得した。そして、ルセアニア人と私と二人の煙草の明りで、私は、国内電報になるのを待って今まで控えていた羅馬《ローマ》の宿屋《アルベルゴ》への電報を書いて、それを給仕に打たせるのに、発車までの残りの時間の全部を費やした。
 国境通関業者の制帽が、暗黒のなかで呪文を大唱した。
『ジェノア・ピサ経由、羅馬《ローマ》行き急行! 羅馬ゆき急行!』
 これが、私達をナプキンから引き離した。
 停電のプラットフォウムには、緑と赤の灯の玉があった。
 煤煙。蒸気。光線。万国寝台会社|欧羅巴《ヨーロッパ》特急車が、傲慢で伊達者な潜勢力を押さえて、駅長《カピタノ》の笛を待っていた。明るい窓が、先へ往くほど小さく、長く続いていた。旅行の精神と、遠い都会の誘惑とが、人々を占領した。そこにもここにも、出発前の上吊《うわず》った声と、着物の擦《す》れ合う音とがあった。騒乱の中から、さっきの荷物運搬人が現われて、予約してある寝台車へ私を救助した。またルセアニアの商人と同じコンパアトメントである。私達は短衣《ヴェスト》の扣鈕《ボタン》を突つき合って、大笑いした。
 汽車が、停電中のヴァンテミイユを見棄てた。雪の帽子をかぶった山頂が、仏蘭西《フランス》の空に吸収された。車体が軋《きし》んで、その隙間から、水の香《かおり》が流れ込んで来た。それによって、私達は、また地中海が私たちを追跡しているのであることを知った。
 ジェノアは、真夜中に擦過するに相違ない。ルセアニア人は、巴里《パリー》ラプレ商店製の印のある靴を脱いで、その茶絹《ちゃぎぬ》に包まれた、バブイノ街の石膏細工のような恰好の好い足で、車室の深紅の絨毯を撫でた。

     2

 車輪とレイルとの摩擦による火気が、鉄材を伝わって、上って来るのかも知れなかった。室内は、莫迦げて暑かった。そのために窓の硝子《ガラス》が膨脹して、白い汗を流した。で、私達は相談して、入口の扉《ドア》を開け放して置くことに合意した。
 恐ろしい転轍の技能だった。その度《た》びに、列車は何|米《メートル》かを飛行した。窓掛けが散乱した。衣裳鞄が踊った。脱いであるルセアニア人の靴が、ひとりでに歩き出した。私達は、空気を抱擁しようとして、何度か失敗した。
 鈍い音を立てて
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