伝記もあります。が、さあ、同棲しているんですかどうですか――。』
 彼女は、先刻から、ルセアニア人から接吻を盗み続けていた。そして、この時も一つ、濡れた音響と共に、肥ったのを奪《と》った。
 しかし、ルセアニア人は、眠っているのではなかった。彼は、この、不可思議な受難の夜を、羅馬《ローマ》まで甘受して往く覚悟が、もうすっかり出来たとみえて、彼女の肩の上に据《す》わっている彼の眼が、平静に私を凝視していた。そのうえ彼は、出来るだけ二つの身体を揺れさせないように、それを自分の責任として、一人で汽車の震動と争っていた。それらのことが、闇黒にも係わらず、私には、よく見えるのだった。
 暁《あかつき》と羅馬《ローマ》とが、線路の末にあった。
 それを眼当てに、汽車は、一層勇躍した。
 加速度の廻転で灼熱したピストンが、足の下に、熟く感じられた。
『時間通りに、羅馬へ這入りそうですね。』
 彼女が、観察した。
『伊太利《イタリー》の汽車が、時間を守るなんて、私達は、これだけでも、ベニイの功績を認めべきではないでしょうか。それから、第二に、名物の乞食が姿を潜めたこと。』
『みんな、役人や兵隊になったのです。そのうちで、よほど哲学的な連中だけが、ヴェニスへ集まって、停車場の前で日光浴をしています。客がゴンドラへ乗ると、その舟べりを押さえて、銅貨一枚《チェンテズモ》を受け取らないうちは、どんなことがあっても、ゴンドラを岸から離さないのが、彼らの職業です。彼らはまた、その時貰う銅貨の多寡によって、ゴンドラの上の外国人を、自由に呪ったり祝福したりすることも出来ます。彼らは、その一|仙《セント》二|仙《セント》で、直ぐに紙巻煙草を買うのです。煙草屋では、特に彼らのために、煙草の袋を切って、一本でも、二本でも、分けて売っています。』
 彼女の好物の一つに、格言があるらしいことが、間もなく、私に解った。
『あなたは、伊太利《イタリー》でよく使われる、こういう文句を御存じですか。「銀行が湖水を潰すか、湖水が銀行を潰すか」と言うのです。ベニイが、この出典に、幾らかの関係を持っています。いまベニイのいる、トロニア屋敷《パラット》の先の所有主、トロニア公爵《プリンチペ》の先祖の出世物語なのです。一八〇〇年代の始めでした。その頃まで、まだ、ただの平民の富豪に過ぎなかったトロニア家は、羅馬《ローマ》で銀行
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