かったことでしょうから。
長い話を短くするために――それから二、三日経った夜更けでした。
「23」はその晩の二十三に見限《ミキ》りをつけてキャジノを出ようとしていました。あれから「岩のような脚をもった女」が一度も姿を現わさなかったので、彼はそれを内心不満に感じていたところでした。キャジノの正面の階段を下りると、芝生と椰子と月夜の公園《ジャルタン》が一面にゆるい登りになっています。そのオテル・ドュ・パリヘ近いほうの角に、人影が固まっていました。何か罵《ののし》るような声も聞えます。「23」はそばへ駈け寄って、人混みのうしろから首を伸ばしました。
あの女でした。地上に倒れているのです。蒼い顔に歯を食いしばって、半分閉じた眼に月が光っていました。そして、もっと異常なことには、彼女の片手が、同伴者である中老の英吉利《イギリス》紳士の燕尾服の裾をしっかりと押えていることでした。
紳士は、女の手を振り離そうとして威厳のうちに※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いていました。見物人は夫婦喧嘩を見るような眼で立っていました。そこを分けて「23」が前へ出ました。
『どうしたのです?』
すると紳士は、待っていた救助船が現われたように、そしてまた悪いところを見られたように、何かわけのわからないことを呶鳴《どな》りながら、いきなり力まかせに女の手を振り解いて、あわてて横町の闇黒《あんこく》へ逃げ込んでしまいました。が、走り出す前に、彼は「23」のポケットへ何か量《かさ》ばったものを押込んで行ったのです。女はただ卒倒していただけでしたから、「23」がその鉄板のような脚を抱いて自分の部屋へ担ぎ込むと、間もなく意識を快復しました。そして同時に、救護者の若いシリア人に恋を感じたと言います。いや、すくなくとも、そう彼女は宣言したのでした。
女はコカイン中毒患者でした。謎の脚は、長年そこへ注射針を刺して来たためにそんなにも皮膚が固化した現象でした。これは、どの医者に訊いてもよくある、さして珍らしくない事実ですが、より[#「より」に傍点]いけないことは、彼女はこの博奕場の幽霊の一つで、あの低音のルウレットの唸《うな》りを聞くことなしには生きて往けない組なのです。彼女にとって、ゲイムに勝つことはコカインを買うための必要事でした。が、それがどうにもならない時は、売春の目的でキャジノで客を探しました。その夜もそうでした。しかし、思いどおりに紳士をつかまえることの出来た彼女は、安心で気がゆるんだせいか、それともコカイン注射の有効期間が切れて彼女の有機が一時的に分散したのか、とにかく、彼女は、ホテルへ行く途中でああして意識を失って倒れたのです。が、彼女の職業本能が、紳士を捉えている片手だけは離させませんでした。掛り合いになって名の出ることを恐れた紳士は、「23」の出現を何よりの好機会に、地上の彼女を「23」に押しつけて、雲隠れしたわけでした。同伴の動機があまり紳士的でないので、或いは彼は、「23」を探偵とでも思ったのかも知れません。これで気がついて、「23」がポケットから先刻《さっき》紳士の押し込んで行ったものを取り出して見ると、それは書物のようなルイの紙幣束でした。
この時からです。ふたりが新しい共同の商売をはじめたのは。
つまり、この偶然事から思いついたのですが、彼らは、何らの資本なしにこのモンテ・カアロで「白い丸薬」と「緑色の羅紗」とを相手に一生遊び暮すだけの財政を、しごく容易に二人のあいだで保ち得ることに気が付きました。それは、その晩の過程《プロセス》を忠実に反復するだけの労力でいいのです。女が売春を装ってキャジノから男を啣《くわ》え出す。そして町角で気絶を真似る。そこへ「23」が現われる。オテル・ドュ・パリあたりの名流の客は、自分の名前に対してだけは恐ろしく潔癖ですから、例外なしに、みんな「23」を警官と間違えて金を押しつけて逃げるのです。それはまるで、万人が万人印刷したような行動だそうです。
二人はオテル・エルミタアジュの三六号室に同棲していて、今でもときどきこの手を用いています。公然の秘密のようなものですが、個人の生計に関与するほど、モナコの警察は暇ではないと言います。これで彼女は要求するだけのコカインを楽しみ、「23」はまた毎晩の「二十三」の軍資にこと欠かないわけでしょう。
忘れました! それ以来、女は「七夫人」として知られているのです。何でもその最初の晩が七日だったそうで、彼女は若い燕《つばめ》の「23」に倣って、それから7にばかり賭けることにしたのです。が、どうせゲエムはニの次ぎで、腕を掴んで倒れるための男を物色しに、一月に二、三度キャジノに出現するだけのことですが――。
コロン製鋲会社の社長・亜米利加《アメリカ》の妻楊枝・ハングルグの荷揚人夫・朝の入浴と玉子・下へ曲っている足の小指――これは誰でも未知の人に話しかける時の、彼女の有名な外交文書です。
「7夫人と23氏」は、私の知る限りにおいてモンテ・カアロの最善の産物ですよ。今度キャジノで教えて上げますから、見て御覧なさい。「23」はちょいと故ルディといった感じの、中婆さんには持って来いの玩具《おもちゃ》です。もっとも、シリア人ですから、小鳥のような円い眼にすこし落ちつきがありませんがね――。』
気がつくと私の手は空《から》だった。菫はやっぱり紫のりぼん[#「りぼん」に傍点]に|X《クロス》をつけたまま逃げたのだ。
底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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