トはじめてすっかり借金を返したり、極東日本の一旅行者夫妻が良人《おっと》から妻への小切手を振出して夫妻同伴で銀行へタキシしたり、市加古《シカゴ》豚肉王の夫人が郷里の豚肉王に宛てた軍資追徴の至急報を片手に、山下のモンテ・カアロ本局で同情すべきヒステリイ発作のため痛くないように卒倒したり――。
その電文にはこうある。
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Fifi has no biscuit.
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地上唯一の運命のALHAMBRA、このモンテ――一ぱんには洒落てカアロを略して――の賭博殿堂へ、私――GEO・タニイ――と、彼の蝶形|襟飾《ネクタイ》と白|襯衣《シャツ》の胸板とが、いま排他的に社交界めかして舞台しているのである。マダム・タニイは巴里《パリー》トロンシェ街の衣裳屋ポウラン夫人が自分で裁断鋏《カッタアス》をふるった蝉《せみ》の羽にシシリイ島の夕陽の燃えてる夜宴服《イヴニング》をくしゃくしゃにして、むき出しの細い二の腕へ粒々をこさえたまんまさっさ[#「さっさ」に傍点]とルウレット台のひとつへ埋没してしまった。
2
火曜日。モンテ・カアロ。Hotel de Paris の新着客。
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エドマンド・モラン卿及びレディ・モラン。コンノウト殿下。ロイド・ジョウジ氏夫妻及びメガン・ロイド・ジョウジ嬢。フランシス・スワン夫人。ナックス・タウンセンド大佐。アンドレ・デニュウ氏夫妻。ヴィクトル・アリ氏。ジョウジ・タニイ氏夫妻。ジャルデノ・バルベニ氏夫妻。オルツィ男爵夫人。パデレウスキイ氏。以下略。
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私達が Monte Carlo へ着いた翌日《あくるひ》、水曜日の巴里《パリー》英字新聞だいり・まいる紙大陸版「リヴイラで何が起ってるか・起ってないか」欄の人事往来にこう出ていた。
モラン卿は、物ごころついて以来理事長をしてきたマンチェスタア紡績同業組合に最近役員の改選があって、その結果、卿のいわゆる「仕方のない鬚だらけの無礼な急進派」のために居心地のいい椅子を追われた精神的負傷を家庭医師の忠告によって癒《なお》すために、そしてレディ・モランは、この機会にここから各方面の政友へ遊覧保証絵葉書を投函するために、モンテへ来たのだった。コンノウト殿下は病帝陛下がバグナア海岸へ御転地になったので、ようよう岬《キャプ》フェラの別荘へ出かけることが出来るのだった。その途中モンテ・カアロにとまって、カフェ・ドュ・パリの前で私の妻のレンズをじろりと白眼《にら》んでそれでも彼女がすなっぷ[#「すなっぷ」に傍点]するまで周囲の人々との会話を中止していられた。ロイド・ジョウジの一家族は土曜日のキャンヌのレディ・ブウトの晩餐会を振り出しに、舞踏と招待とリセプションとが十五分おきに全旅程を埋めつくしていた。ひそかにコンミュニズムを信奉する一青年記者が、部屋つきの給仕に化けてその貸切室へ出入し、十五分ごとに彼らの言動のすべてを倫敦《ロンドン》本社へ直通電話していた。しかし新聞には彼の言わないことばかり出るといって、召使用|昇降機《エレベーター》のなかで非常に悄気《しょげ》ている記者を私は見たことがある。君も早く感想兼自叙伝の印税で家内じゅうで特別旅行をするがいいと私は彼を慰藉《いしゃ》しておいた。が、このぶるじょあ的|諧謔《かいぎゃく》は彼には通じないようだった。そしてロイド・ジョウジは依然としていつ万年筆と記念芳名録を突きつけられて署名を求められても困らないように右の手だけ手袋をせずにオテル・パリの廊下で杖をついて、それからあの有名な眼尻の皺《しわ》と同伴でしじゅう外出していた。自動車の踏板へ片足をかけたところで「|どうぞ《プリイズ》!」と呼びかける写真班へは、彼は常に選挙民のために貯蔵してある微笑の幾らかを許した。この姿態《ポウズ》が一ばん漫遊中の国民政治家らしくて彼の好みに適合したからだ。そのあいだ令嬢のメガンはウィイン法学雑誌の「羅馬《ローマ》私法における売買契約の責任範囲とその近代法理思想に及ぼせる必然的投影の価値・並びに以上の歴史的考察」の論文を大ジャズバンド演奏中のTEAルウムの椰子《やし》の鉢植えのかげで読みながら、誰かが話しかけるごとに、勿論すぐその運動帽子のように真《ま》ん円《まる》い顔を上げて父のために笑った。しかし小指はウィイン法学雑誌の読《よみ》かけの頁へ挟まれているのを私は見落さなかった。そして相手がもし新しい招待を持ち込んで来たのだったら、彼女は早速胸の開きから小型記憶帳を取り出して日と時間と場処だけを書きつけていた。招待者の名前は決して書かなかった。たとえそれが未知の人であろうとも、彼女は名を訊こうとしないのである。大戦によって社交の習慣もこう変ったのであろうと私は思った。
フランシス・スワン夫人は彼女がホテルの日光浴外廊のアペレテフの上で私と私の妻に告白したとおりに、セルビヤの将軍の娘だった。そこで私はその白鳥《スワン》という姓があんぐれかえたゆに[#「あんぐれかえたゆに」に傍点]系統のものであることを指摘して、夫人に満足な説明を求めたのだった。それに対して彼女は、二つの角砂糖のあいだへ食卓の花挿《はなさ》しから薔薇《ばら》の花びらを一枚採って挟みながら、言いはじめたのである。『ムシュウ・エ・ダム。私はオデッサの大学を出ると直ぐ第三国際の宣伝員として黒海に沿うすべての都会の裏街で売春婦たちと一しょに人参《にんじん》と洗濯|石鹸《しゃぼん》を食べて生活しました。彼女らに彼女らの社会の採用した新しい政治様式の哲理を根本的に知らせるためだったのです。が、間もなく私はその無駄なことに気がついたのでした。なぜって、彼女らはみんなコルセットに手製のポケットを縫いつけて、そこへ醜業で獲《え》た三|留《ルーブル》七十|哥《カペイカ》と一緒に、兵隊達が旧家の客間から盗み出した聖像を押し込んでいるんですもの。経済と宗教を同居させるなんて、前者にとって何という冒涜でしょう! おまけに彼女らは、得態《えたい》の知れない蛮語しか話さない頸の黄色い一羽の鸚鵡《おうむ》を貰うためには、最上等の無煙炭みたいに紫いろの熱気を吐くコンゴウ生れの火夫とでもその船の碇泊中同棲することを辞しないのです。そのうえ、毎朝早く市場へ人参と夜来の露と黒土のにおいを運んでくる近郊の農夫達へ、彼女らは窓から新聞に火をつけて振るのです。夜明けの闇黒《あんこく》は一そう暗いものですから、こうする必要があるのですけれど、彼女らは「赤い警鐘」紙も「労働と自由」新聞も火をつけて窓から振るために存在するのだと思ってるのです。そうするとそれを見ておいて、市場の帰りに百姓たちが彼女らの部屋を訪問します。そして彼らの馬鹿力の愛撫によって彼女たちの午後いっぱいの眠りがはじまるのです。歴史的にブルジョアのものと定義されている怠惰・信心・不潔と安逸への強い執着以外、そこには何もないのです。この女達は無産者のなかでの貴婦人であると私は結論しました。同時に私は、黒海地方特産の美容用れもん[#「れもん」に傍点]をしこたま鞄へ詰めて巴里《パリー》へ出ました。』
ここでフランシス・スワン夫人は玩具《おもちゃ》にしていた角砂糖と薔薇のサンドウィッチを口へ入れようとした。私が心配して注意した。
『小枝を切って絵具の溶液へ差しておくと、花がそれを吸い上げて自働的に着色されます。ニイスあたりでは、そういう薔薇をトルキスタンの花崗岩《かこうがん》帯で発見された珍らしい変種と称して町かどで売っています。おもに謝肉祭の花合戦に恋人同志が投げ合うのですが、首と手足の太い英吉利《イギリス》女なんかがそのまま故国《くに》の従柿妹《いとこ》へ郵送出来るように、一、二輪ずつ金粉煙草《ゴウルド・フレイクス》の空缶へはいって荷札までついていて、値段は五十|法《フラン》です。なかには、物を舐《な》める習癖のある赤ん坊はこれで自殺出来るほど、着色液の性によっては有毒なのがあります。その一種かも知れませんから、お砂糖に挟んで食べるのは中止なすったほうがいいでしょう。』
これが私の妻を噴き出させた。彼女はH・Pとロココ風に略字《モノグラム》のつながった銀の匙《さじ》で私の手の甲の静脈を叩きながら、古代ヘブライ語で私をたしなめたのである。
『何を言ってらっしゃるの? 造花じゃありませんか、これ。』
そして、自分でその花片の一つを※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》ってむしゃむしゃ[#「むしゃむしゃ」に傍点]食べてしまった。もちろんこの時は既に薔薇のサンドウィッチはフランシス・スワン夫人の胃の腑のなかにあった。例《たと》えそれが星のかけらであっても、食卓に出ている以上、この女達は※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]薬味汁《アンチョビ・ソウス》をつけてフォウクに刺して舌へ載せたことであろうと私は推測した。
消化された薔薇がそのまま声になってフランシス・スワンの口を出はじめる。
『巴里《パリー》へ行ったのはオウトバイ競争の選手になるためでした。そこで私は遠乗《とおのり》協会の会員章の色ネクタイで髪を結んで、フランチェスコ派の苦行僧のように跣足《はだし》に皮草鞋《サンダル》をはいて三十六時間もぶっ続けにペダルを踏んだものです。が、それは私に一つの婚約を持って来るよりほか何の役にも立ちませんでした。男はバルセロナ出身の立体派画家で闘牛の心得もあったようです。「霧の中を往く馬車」というのと「虹の夢」という二つのカクテルを混ぜるのが彼の独特の技能でした。そして彼は、私の銀箔《ぎんぱく》の訪問服へ聖《サン》エミリオンの葡萄酒でその頃理論的に評判のよかったサンジカリズムの絵を描いてくれました。鉄鎚《てっつい》は鉄鎚で集まり、車輪は車輪であつまり、あちこちに調べ革と木靴の模様が散らばっていて、ちょうどお尻のところに聖書が一冊描いてありました。だからそれを着てグラン・ブルヴァウルを歩くことはどんなに私を楽しませたでしょう! キャフェ・ドュ・ラ・ペエ! あすこらの椅子に腰かけると、私はたちまち聖書をお尻に敷いてるのです! 彼はまた手の平に隠れる豆ヴァイオリンを持っていて、夜はそれでTOSCAの愁嘆を弾いて私の涙を誘うのでした。そうして彼は私を伴《つ》れて亜米利加《アメリカ》へ渡りました。あめりかでは、私たちは私たちの智的さを秘密にして帰化することに成功しました。スワンという名はこうして出来上ったのです。彼は、忙しがって衝突して首の附け根を折るウォウル街の株屋や、地下鉄で自ら進んで「|春の鶏《スプリング・チキン》」に足を踏まれたがる「神呪された胡桃《くるみ》」の多いのを目的《めあ》てに、紐育《ニューヨーク》で接骨医を開業しました。が、まずその電気広告費を稼ぐために、彼は毎日違法倶楽部の酒台の向側でカクテル壜《びん》を振らなければならなかったのです。彼が急死したのは、この選挙演説のように激しい振子運動がふだんからあんまり丈夫でなかった彼の心臓へ致命的に影響したのだと、倶楽部の医者が啣《くわ》え葉巻で走り書きした死亡診断書にありました。あとの私のことは多分あなた方のほうが詳しいくらいでしょう。』
私はあわててこういう言葉を挿入する必要を感じた。
『言うまでもなく、近代の新聞はすこし五月蠅《うるさ》くなりかけています。あなたなども随分個人的に立ち入った報道をされて御迷惑なすったことでしょう。』
夫人は指を鳴らして、この私のお世辞に対する喜ばしき受領証の笑いに換えた。
『事実は私は女秘書聯盟の書記になって午飯《ランチ》の休憩時間を一時間増すための全国的運動を起してそのかげに隠れて加奈陀《カナダ》総同盟の最左翼と結託しようか、それともハリウッドへ行って映画女優になろうかとずいぶん考えたのです。で、結局、ハリウッドへ出かけてメトロ・ゴウルドウィンの配役監督に面会したのですが、海水着に日傘をさして腰で調子を取って歩く試験にも、出来るだけ情熱的に接吻する試験――相手はその
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