踊る地平線
Mrs. 7 and Mr. 23
谷譲次

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ロウザンヌ発|大特急《グラン・ラピイド》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)ロウザンヌ発|大特急《グラン・ラピイド》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)肉豆※[#「くさかんむり/「寇」の「攴」に代えて「攵」」、第3水準1−91−20]《にくずく》

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつた
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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     1

 蜜蜂の群の精励を思わせる教養ある低い雑音の底に、白い運命の玉がシンプロン峠の小川のような清列なひびきを立てて流れていた。
 シャンベルタンの谷の冬の葡萄畑をロウザンヌ発|大特急《グラン・ラピイド》の食堂車の窓から酔った眼が見るような一面に暖かい枯草色のテュニス絨毯なのである。それを踏んで、あたしいま香料浴を済ましてきたところなの、と彼女の全身の雰囲気が大声に公表している、中年近い女が来て私の横にならんだ。肘《ひじ》が私に触れて、彼女が言った。
『数は? 何が出て?』
 答えるまえに、私はゆっくりとその女を研究した。
 近東型の広い紺いろの顔が、八月の地中海が誇る銀灰色のさざなみによって風景画的に装飾されていた。私はきのうモナコの岩鼻から見物したモウタ・ボウトの国際競争を聯想しなければならなかった。しかし私は、そのことは彼女に話さなかった。彼女の臙脂《えんじ》色の満唇《フル・リプス》と黒いヴェネツィア笹絹の夜礼服とが、いつかラトヴィヤのホテルで前菜《オウドゥブル》に食べた、私の大好きな二種の露西亜塩筋子《ロシアキャヴィア》の附け合せと同じ効果を出していたからだ。私は鋭利な食慾を感じた。そして食慾はいつも私を無言にする。で、私は私の視線を彼女の下部に投げることによって、この、自分の娘よりも若いに相違ない中婆さんを慰楽《アミュウズ》しようと試みた。
 彼女の属する社会層は瞬間の私にとって完全な神秘だった。が、私はいま何よりもじぶんのいる場処をはっきりと認識しなければならない。このモンテ・カアロの博奕場《キャジノ》では、どんな神秘も個人の関心を強《し》いはしないのだ。じっさいいかに小さな異常現象へでもすこしの好奇心を振り向けることは、ここの多角壁の内部ではそれだけで一つの「許せない規則違反」なのだ。そこで私はただ聖《サン》マルタン水族館の門番のように、黙ったままこころのなかで彼女の足へ最敬礼することで満足したのである。
 がめたる[#「がめたる」に傍点]の靴下が慄悍《ひょうかん》な脛《すね》を包んで、破けまいと努力していた。その輪廓は脂肪過多の傾向からはずっと[#「ずっと」に傍点]遠かった。アキレス氏|腱《すじ》は張り切って、果物ナイフの刃のように外へむかってほそく震えていた。私の眼にも判る一|大きさ《サイズ》小さなゴブラン織りの宮廷靴が、蹴合《けあ》いに勝って得意な時の鶏の足のような華奢《きゃしゃ》な傲慢さで絨毯の毛波《ケバ》を押しつけていた。彼女が足を移動すると、そのけば[#「けば」に傍点]は一せいに起き上って、絨毯のうえの靴あとが見てる間に周囲に吸われて消えた。あまり繊細に、そして音律的に足が動くので、そのうちに私は、じつは彼女が、咽喉《のど》の奥で唄う高速度曲に合わせてブダペスト風の踊りを真似してるのであることを知った。
『ね、何を見ていらっしゃるの?』
 この中婆さんは微笑らしいもので私の近代的騎士性を賞美するのである。それから彼女は、伊太利《イタリー》RIVIERAの聖《サン》レモで、眼と声の腐った不潔な少女達が悪魔よけの陶製の陽物と一しょに売ってる、羅馬《ローマ》皮に金ぴかの戦車を飛び模様に置いた手提《バッグ》をあけて、煙草の挟んでない象牙の長パイプを取り出し、直ぐにそれを指先で廻しはじめた。電灯の光矢《こうし》がぶつかって、花火のように音を発して散った。私はこの意味の不明瞭な手品に見入っていた。
『あたしね、ちょいと卓子《テーブル》を明けたの。いま何番が出て?』
 今度はリラとすぺいん[#「すぺいん」に傍点]葱《ねぎ》のまじったにおいが彼女の口から私の嗅覚を撫でた。この女は歓喜の絶頂で泣きながら男の鼻を噛む種類であると私は測定した。またこの場合、返事はすべて仏蘭西《フランス》語でされるのでなければ罪悪であることも私は心得ていた。ところで、私は流暢なふらんす語を話すのである。
『番号は三十六です、マダム。』
 私は給仕長のように散漫な好色を隠して言った。
 すると、罩《こ》もった空気を衝《つ》いて彼女の金属性の微風が掠《かす》めたのだ。
『あら! どうしてそれを御存じ? 三六号はオテル・エルミタアジュのあたしの部屋の番号よ。』
 彼女の胸で二つの小丘がわなないた。同時にCIRO真珠飾りがちらちら[#「ちらちら」に傍点]と鳴いて、彼女は歯を見せずに笑った。ぷろしゃ聯隊の伍長のように青々といが[#「いが」に傍点]栗に刈った頭がいつまでもいつまでも笑いに揺れているのである。それにしても、どうして私は彼女の部屋の番号なんぞ知っていたんだろう? 私はあわてて、36はいま私の立ってるルウレット卓子《テーブル》で玉の落ちた番号に過ぎないと彼女に告げた。が、そのときはもう全然ほかの興味に彼女は身を委《ゆだ》ねていた。雨の日のシャンゼリゼエに留度《とめど》もなく滑る自動車の車輪《タイヤ》のように、彼女は自分の心頭《しんとう》がどこへ流れて行くかじぶんで知らないのである。またその自動車の後窓に、都会の迷信中の傑作として護謨《ごむ》糸に吊るされて踊ってる身振り人形のピエロのように、彼女は近代的速度を備えた淡いエゴイズムの一本の感覚の尖端にぶら下ってるのだ。
 言葉と彼女の上半身とがいっしょに饒舌《しゃべ》り出した。
『わっら! ムシュウ。ほら、あすこに、そばへ寄るときっとラックフォルト乾酪《チーズ》と酸菜《サワクラウト》のにおいのしそうな、伯林《ベルリン》ドロティン・ストラッセ街から来た紳士がいるでしょう? あの肥った、そら、いま乾板現像液で茶色に染まってる手を出して、他人の賭金《ステイキ》を誤魔化《ごまか》してさらえ込もうとしている――AA! 何て素走《すばし》っこい事業でしょう! あたしはあの人を讃美します。いいえ、あの人はハンブルグの荷上《にあげ》人夫ではないのです。コロンの郊外に生産工場を持っていて、半世紀来|欧羅巴《ヨーロッパ》じゅうの客車と貨物列車へ打ってきた鋲《びょう》の供給者なのです。あの人の手はいつも他人《ひと》のぽけっとへ這入りたがってうずうず[#「うずうず」に傍点]しています。あの人は毎朝熱湯に入浴してじぶんの身体《からだ》と一しょに茹《ゆ》でた玉子をお湯のなかで食べるのです。あの人はエストニア孤児救済委員会の委託金を着服してそれで亜米利加《アメリカ》から理想《アイデアル》印しの妻楊枝《つまようじ》を輸入したのです。そのために青煙突《ブルウ・ファネル》のやくざ船をすっかり傭船《チャアタ》しました。うい・むっしゅう! あなたはあの妻楊枝を満載した英吉利《イギリス》貨物船の編成隊が不意の光線に追われた油虫の家族のように仲の好い一列を作ってダンジグ港へ投錨した時の華美な光景を御存じですか?――そして、あの男の足の小指は、赤い蘇国《そこく》毛糸の靴下のなかで下へ曲がってるのです。OUI! 両方とも――なぜこんなに詳しくあたしがあの人のことを知ってるだろうってびっくり[#「びっくり」に傍点]してらっしゃるのね。だって、あの人はあたしの良人《おっと》ですもの。Tut−tut !』
 私の眼が高処恐怖病患者と同じ怯懦《きょうだ》さで広い博奕場のあちこちへ走った。が、私も負けてはいなかった。やがて私は、すこし向うの卓子《テーブル》に、鼻の穴から毛の生えてるリヨンの老生糸商と、生水・ENOの果実塩・亜米利加《アメリカ》産|肉豆※[#「くさかんむり/「寇」の「攴」に代えて「攵」」、第3水準1−91−20]《にくずく》・芽玉菜《めたまな》だけの食養生を厳守することによって辛うじて絵具付《ペインテド》シフォンの襞《ひだ》着物を着れる程度に肥満を食いとめている、安ホテルの椅子みたいに角張ったあめりか女とのあいだに、ルウレットに忘我して顔を真赤にしてる私の妻を見つけて、急いでそのことを言い出したのである。
『彼女《あれ》はこのモンテ・カアロのばくち[#「ばくち」に傍点]にかけてはじつに天竺鼠《てんじくねずみ》のように上手に立ち廻るのです。御覧なさい。ペイジ色の蜜柑《マンダリン》がすっかり上気してまるで和蘭《オランダ》のチイス玉のようでしょう。二つ光ってるのは黒輝石の象眼ではありませんよ。あれは単に彼女の眼です。無理もありません。今夜は朝までに三千|法《フラン》勝って坂の上の駒鳥屋《ロパン》で私に一九三三年型の純モロッコの洋杖《ステッキ》と、一流の拳闘選手が新聞記者に会うときに引っかけるような色絹の部屋着を買ってくれようと言うんですからね。いま一生懸命のところです。』
 こう言って、気がついて振り返ってみると、相手はもうそこにいなかった。この女は波斯《ペルシャ》猫である。だから映画のなかの人物のように音もなく行動するし、たとえモナコ名所|犬首岩《テエト・ドュ・シアン》からいが[#「いが」に傍点]栗の頭を下にして落ちたところで、すぐ立ち上って懐中爪磨き道具でマニキュアをはじめるだろう。女は両手を腰に akimbo したまま、隣りの六番のルウレット台のまわりをひやかして歩いていた。V字形の割れた背中は、お尻のすぐ上まで法王祈祷台の素材のカララ大理石だった。そこに切紙細工の黒|蝙蝠《こうもり》が一匹うれしそうに貼りついていた。蝙蝠はどこへでも彼女の行くところへ尾《つ》いて往った。
 さて、と私は一時にこの現金を数倍もしくは数十倍にもしなければならない目下の事務に返っていた。私はTAXIDOの内隠しから mille の紙幣を二枚抜きながら、それを|賭け札《カウンタア》に換えてくれる「両替《シャンジュ》」の窓口のほうへ泳ぎ出したのだが、私と窓のあいだには、嘘言とあらゆる悪徳の余地のないほどスキイのように瘠《や》せて平べったい中欧山岳地方の女地主と、星条旗とフウヴァの Talkie にだけは必ず脱帽する亜米利加《アメリカ》無政府主義の青年紳士とが挟まっているので、私はしばらく手の千法《ミユ》と遊ばなければならなかった。
 ちょうど晩餐時刻だった。人はみんなオテル・ドュ・パリやCIROやアンバサドウルの食堂で皿や給仕人や酒表と戦ってる最中だった。賭博場はわりにすいていた。それでもこの 1928−29 の「高い季節《セゾン》」である。着色ジェリイをこんもり[#「こんもり」に傍点]と型へ嵌《は》めて打ち出して、それへウラルの七宝と、ルイ王朝の栄華と、近古ムウア人の誇示的|輪奐美《りんかんび》とをびざんてん風に模細工《もざいく》した。そして、香気と名流と大飾灯《シャンデリア》と八面壁画とに、帝室アルバアト歌劇場のように天井の高いこの「機会の市場」だ。緑いろの羅紗を張った長方形の卓子《テーブル》のうえでは、丁抹鰻《デンマークうなぎ》のように滑《すべ》っこい皮膚をもった好機《チャンス》の女神――このお方は、しじゅうあの大刈入れ鎌を手にしてる死神のタイピストなんだが、断髪してることを忘れて速記《ステノグ》用の鉛筆を頭へ挿《さ》そうとしてはよく下界へ落とすと言われている。つまりそれほど頼りない女神である――がほほえんだり顔をしかめたりする。するとそのたびに、ナポリの画学生が三日間大富豪になったり、コンスタンチノウプルの旅役者が生れ
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