ト督でした――にも、階段をころがり落ちる試験にもすっかり及第したのですけれど、最後の乗馬試験で撥《はね》られてしまいました。私にはどんなに好意ある男をさえも恐怖させるところがあるのです。そのために女優になることは断念しなければなりませんでしたが、あなたが私の名を新聞で御覧になったとすれば、それは映画事業に関聯してではなく、遺産相続という恥ずべき、けれど甘い法律手続の客体としてではなかったでしょうか。全く現在の私は、先月亡くなった父将軍の預金通帳によってこうしているのですからね。つまり良人《おっと》と父と、私はいま二重の喪に服していて重いのです。しかし私は正規の喪服を着ることはどこまでも拒絶します。黒は私に似合ったことありませんもの。』
 そしてその申訳のように、彼女は父の分と良人のぶんと二|吋《インチ》四方ほどの黒の絹はんけちを二枚、靴下の腿《もも》のところから摘《つま》み出して、別々のハンケチで左右の眼から桃色の蝋《ろう》のしたたりのような涙を拭くのである。私はそのハンケチが西班牙《スペイン》旧教葬の寝棺にかける黒レイスの切れはしであることを認めて、その通り彼女に告げた。
 彼女は父の方のはんけち[#「はんけち」に傍点]で鼻をかんでから私の妻に言った。
『奥さま。お茶へは何をお入れになります? 檸檬《レモン》よりも「|彼の主人の声《ヒズ・マスタアス・ヴォイス》」の蓄音機レコードのほうが宜しう御座いますわ。お茶のなかへあれをすこし爪鑢《つめやすり》で削り落していただきますと、どんなにスチイムの利いてる応接間《サロン》で何時間|他所行《よそゆ》きの言葉を使っていても、決して小鼻の横に脂肪の浮くということはございません。さ、庭園《ジャルダン》に出て馬車屋の挨拶と夕陽の色を吸いましょうね。おお・※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]・おあある、ムシュウ!』
 そして立ちがけに、通りかかった給仕を指先で押さえてフランシス・スワン夫人がささやいたのだ。
『ピイタア、この紳士にあの「あたしの記憶のために」のカクテルを一つ混ぜて上げて頂戴。』

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 ランキャスタシャアのPOLOの名手として知られているナックス・タウンセンド大佐は、女を擽《くすぐ》るために赤毛の口髭を短く刈り込んで、RをUのように発音していた。彼はまたブラッセル産|切子《きりこ》細工の硝子《ガラス》の
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