ファエル・グエラはほん[#「ほん」に傍点]の一季節の闘牛に二百二十五頭の牛を斃《たお》して七万六千ジュロス――十五万円余――を獲たことがあるし、現今でも、何のたれそれ[#「たれそれ」に傍点]と名のある闘牛士なら、年収約二万から二万五千円を下らないのが普通だ――税務所の調べみたいになっちまったが、こんなふうに、名が出ると金になる。女には持てる。学問も教養も要らない。要らないどころか、そんなものは無いほうがいい。第一、人中《ひとなか》で牛が殺せる! と言うんで、貧乏人の子供でちょいと腕っぷしの強いやつ[#「やつ」に傍点]は、争って闘牛士を志願する。なかには医学生のぐれ[#「ぐれ」に傍点]たのや、電気技師の勤め口を棒に振って闘牛庭《レドンデル》の砂にまみれてるといった酔狂なのがあったりして、この闘牛士の仲間は、色彩的な西班牙《スペイン》の社会により[#「より」に傍点]強烈な色彩を塗っている絵具だ。マドリッドの太陽広場《プラサ・デ・ソル》から左手へ這入った古い狭い横町に、役者――ドン・モラガスをはじめ――だの、この下っぱ闘牛士なんかのぼへみあん[#「ぼへみあん」に傍点]連中が勝手な生活をしている一廓があって、夜おそくそこらをうろつくと、方々のキャフェで西班牙酒《モンテリア》をあおってる彼らの影絵《シルエット》がもうろう[#「もうろう」に傍点]と揺れ動いている。で、まあ、それほど志望者が多いもんだから、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と闘牛学校まで出来ていて、未来のベルモントを夢みる青少年の群――なかにはアルゼンチンあたりから留学してるのもある――に、初等闘牛史、怒牛心理学概論、闘牛道徳、闘牛作法、扱牛法大綱なんてのを講義したり実修したりしている。
さあ、ここでいつまでも闘牛士にかまっちゃいられない。入場式が済むと、直ぐに牛が出て来るから――。
粛々と前進してきた今日の出場闘牛士は、いま正面ボックスの下に整列している。
ESPADAのベルモントが、一同を代表して司会者――これはたいがい皇后さまか宰相夫人か、とにかく女性にきまってて、この日は赤十字マドリッド支部長としての市長夫人だった――へ、大芝居に騎士的な一礼をしている。
何と graceful なその史的洗煉!
扇をとめて、市長夫人がボックスに立った。何か抛《ほう》った。黒い小さな物が赤い尾を引いて、円庭《リング》の砂を打つ。ベルモント門下の高弟|槍馬士《ピカドウル》のひとりが拾う。鍵だ。赤いりぼん[#「りぼん」に傍点]が結んである。牛小屋の鍵だ。
歓声・灼熱・乱舞する日光。
やあ! 鍵を押し戴いた闘牛士が、観覧席の一方へ手を上げて、胸を叩いて絶叫し出した。
『OH! わが心臓の主よ! 悦《よろこ》びとそうして望みの君よ! わたしはこれからあなたの光栄のためにこの牛を殺して私の勇気と武芸を立証します――!』
AH! 何というDONキホウテ式|科白《せりふ》! 呆れた大見得! 中世的な子供らしさ!
すると、その方角に当って、人のなかから女が起立した。この闘牛士の妻、もしくは情婦、とにかくこれが彼のいわゆる「心臓の主」なのだ。
夥《おびただ》しい視線の焦点に、ぼうと上気して倒れそうな彼女が、胸のカアネエションに接吻《キス》して、下の闘牛士へぽん[#「ぽん」に傍点]と投げる。
ふたたび、喝采・動揺・乱舞する日光――羅典《ラテン》的場面の大燃焼だ。
これを合図に、ベルモントをはじめ重立った闘牛士は、一時|溜《たま》りへ引っ込んで行く。
あとには、最初出来るだけ牛を怒らせる役―― Veronica ――の若手が五人、素手に、おのおの肩や腰の紅布《ミウレタ》を外して拡げながら、あちこちに陣取って、身構えた。
広い砂のうえに、ほかに人影はない。
5
はじめ噴火みたいな底唸《そこうな》りが聞えて来た――と思うと、いきなりリングの一隅から驀出《ばくしゅつ》した「真黒な小山」!
何て大きな牛だ!
闘牛場全体に溢れそうじゃないか。
あ! こっちへ来る。びっくり[#「びっくり」に傍点]してらあ! この日光に、色彩に、音響に。
まるで疾駆する「黒い丘」だ。
鈍重の代名詞が、こんなに早く走れようとは私は今まで思いも寄らなかった。
すでに彼は、早速手ぢかの紅布《ミウレタ》へ向って渾身的攻撃を開始した。
きらりと角が陽に光った。闘牛士が身を躱《かわ》した。黄砂が立ち昇った。紅片《べにきれ》がひらめいた。
牛はいま、さかんにその紅いきれへ挑みかかっている。
そうだ。そう言えば、まだこの「牛《トウロス》」のことを説明しなかったが、ちょっとここで一つ大急ぎで書いておこう。
闘牛用の牛はTOROSと言って、牛でさえあれば何でもいいというわけには往かない。だから、昨
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