ッもいまは短い明け方の眠りを眠っている。あんまり好《い》い月夜なので、ドン・ホルヘもつい、うろ[#「うろ」に傍点]覚えの南部ヘレス産の黄葡萄酒・北部リオハ産の赤葡萄酒なんかと、むかし主馬頭夫人《モンテイロセニョラ》がやったように月を仰いで低唱《ハム》しようとしたところが、やっぱりいけない。窓の真下からSI・SI・SIとはっきり[#「はっきり」に傍点]恋の迷魂らしいささやきが揺れ上ってくるのだ。
 ドン・ホルヘの私は、眼をこすって窓の下の月光を透かし見た。
 家の根元に、何だか黒い物が魔誤々々《まごまご》している。


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 とこう言うと、さしずめこのあとは、「マドリッドの旧家に泊って経験した恐怖の一夜」といったふうな西班牙《スペイン》種の怪談でも出て来なけりゃならないようだが、なに、そんなんじゃない。
 私の寓居にペトラという若い娘がいる。
 いやに話が飛ぶようだけれど、飛ぶ必要があるんだから仕方がない。
 で、私の家のペトラは若い娘だった。
 西班牙《スペイン》の若い娘はすべてその近隣《ネイバフッド》の甘味《スウイティ》である。だから、ペトラもこの公約により主馬頭街《カイ・デ・モンテイロ》の Sweety だった。
 すでに甘味《スウイティ》だから、ペトラはあの、アンダルシアの荒野に実る黒苺《くろいちご》みたいな緑の髪と、トレドの谷の草露《くさつゆ》のように閃《ひら》めく眼と歯をもつ生粋のすぺいん児《こ》だったが、仮りに往時の主馬頭内室《セニョラ・モンティラ》ほどのBEPPINじゃなかったにしても、何しろマドリイの少女――と言ってももう二十五、六だったが――なんだから、このモンテイラ街のペトラにも疾《と》うに一人の男がついていたということは、そのまま、受け入れられていいだろう。
 などと、何もそうむき[#「むき」に傍点]になることはない。要するにうちのペトラに恋人あり、その名をモラガスと言って西班牙《スペイン》名題歌舞伎リカルド・カルヴォ一座の、まあ言わば馬の脚だった。じつは一度、私はこのドン・モラガスの舞台を見たことがあるんだが、幕があくと、グラナダあたりの旅人宿《ポクダ》の土間で、土器の水甕《みずがめ》の並んだ間に、派出《はで》な縫いのある財布《アルフォリヨ》を投げ出したお百姓たちが、何かがやがや[#「がやがや」に傍点]議論しながら、獣皮の酒ぶくろ
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