に傍点]として猥雑・病菌・不具・古蒼《こそう》の巣窟みたいなレクトル・エケクランツの店は、不思議とそれだけでひとつの調和を出していた。その効果は成功だった。レクトル・エケクランツ自身が猥雑・病菌・不具・古蒼を兼備して、彼の商品たる魑魅魍魎のひとりに化けすまし、おどろくべき安意《アト・ホウム》さでそれらを統率していたからだ。
 じっさい、売物の黒円帽《くろまるぼう》をかぶって売物の煙管《きせる》をくわえたレクトル・エケクランツは|弾ね《スプリング》のない売物の大椅子に腰を下ろして――つまり売物のひとつになり切って、眼のまえの狭い往来を眺めくらしていることが多かった。私たちは何度となくここを往ったり来たりした。それは巾三尺ほどの延々たる露路で、何世紀にも決して日光のあたることはないらしかった。
 だから、しじゅう濡れている敷石から馬尿のにおいが鼻をついて、大きな銀蠅《ぎんばえ》が歓声をあげて恋を営んでいた。日がな一にちレクトル・エケクランツの水っぽい瞳《め》が凝視している壁は、おもて通りに入口をもつ売春宿ホテル・ノルジスカの横ばらで、そこには雨と風と時間の汚点《しみ》が狂的な壁画を習作していた。
 その晩私たちは、レクトル・エケクランツの店の赤っぽい電灯の灯《ほ》かげで一冊の書物を買った。何べん目かに前を通ったとき、仏蘭西《フランス》風の女用|上靴《うわぐつ》と一しょに端近《はしぢか》の床にころがっているのを発見したのだが、這入って、黙って手に取ってみると、私は妙に身体《からだ》じゅうがしいん[#「しいん」に傍点]と鳴りをしずめるのを感じた。それは西班牙《スペイン》語の細字で書かれた十二世紀の合唱集《アンテフォナリイ》だった。各頁とも花のような肉筆に埋《うず》まって、ふるい昔の誰かの驚嘆すべき努力が変色したいんく[#「いんく」に傍点]のあとに見られた。表紙は動物の皮らしかった。それに唐草《アラベスク》の模様があって、まわりに真鍮の鋲《びょう》が光っていた。ゴセック式の大きな釦金《クラスプ》がそのまま製本の役をつとめていた。
 こういうと異常な掘り出し物のように聞えるけれど、ほんものかどうか私は知らない。その、踊っているような読みにくい字を西班牙《スペイン》語だといったのも、また、この本は十二世紀に出来たのだと請合ったのも、売った当人レクトル・エケクランツの鬚だらけな口ひとつだったからだ。だから、あるいは全然旅行者向きの作りものだったかも知れない。全く、十二世紀のスペインの合唱本がこのコペンハアゲンの裏まちに、しかも安く売りに出ているということはちょっと考えられない。が、私は贋《にせ》でも構わないのだ。ただこの古い――もしくは古いように見える――書物を、こぺんはあげんへルゴランズ街《ガアド》の露路の奥のレクトル・エケクランツの家《うち》で手に入れたという場面だけが私を満足させてくれる。ほかのことはどうでもいい But still, 私としては彼の言を信じていたい。なにしろ、赤黄いろい電灯のひかりのなかで、その照明にグロテスクに隈《くま》どられた顔とともに、水腫《みずば》れのした咽喉《のど》を振り立てながら、あのレクトル・エケクランツ老爺《おやじ》が、その品物の真なることを肯定して、こうつづけさまにうなずいたのだから――。
『AH! ウィ! ウィ・ウィ・ムシュウ――。』
 かれは奇怪な――たぶん十二世紀の――ふらんす語を話した。
 で、この十二世紀のすぺいん語の合唱本である。その真偽は第二として、私はこれがコペンハアゲンを生きて来たという一事を知っている。なぜなら、コペンハアゲンそのものが「こまかい花文字でべったり書かれて、唐草模様《アラベスク》の獣皮の表紙に真鍮の鋲を打ち、ゴセックふうの太い釦金《ぼたん》で綴じてある」一巻の美装史書だからだ。
 そして十二世紀! こぺんはあげんは十二世紀に根をおろした市街だ。もっともその後一度火事で大半焼けたけれど。
 けれど、私の概念において、この一書はたしかにコペンハアゲンの化身に相違ない。私たちはいつでもその頁を繰って、一枚ごとにまざまざ[#「まざまざ」に傍点]と北のアテネの風物と生活を読むことが出来るだろうから――それは私達にとって絵のない絵本なのだ。いまもこれをところどころくりひろげていこう。
 私のコペンハアゲンだ。
 ひらく。
 第一頁。
 |新しい王様の市場《コンゲンス・ニュウトルフ》。馬像《ヘステン》の主クリスチャン五世がつくった広場《プラザ》。そのむこう側のシャアロッテンボルグ宮殿は五世の后《きさき》シャアロット・アメリアの記念。現今は帝室美術館。
 第二頁。
 美術館に近い広場のはしに帝室劇場。代表的北欧ルネザンス建築。そこの大廊下にあるサラ・ベルナアルの扮したオフィリアの浮彫は世界的に有名だ。
 第三頁。
 クリスチャンボルグ宮殿。いまの国会議事堂。灰いろの石の威厳ある立体。
 ある頁。
 トルワルゼン美術館。
 ベルテル・トルワルゼンは北|欧羅巴《ヨーロッパ》の生んだ最大――すくなくとも量では――の彫刻家で、伊太利《イタリー》に遊び、その影響の多い作をたくさん残している。この美術館には彼の生涯の仕事のほとんど全部があつまっていて、大きな二階建の廊下から各室をうずめつくしている大小の彫刻がすべて彼ひとりの手に成ったものだというから、まずその工業的な生産力に驚かされる。その時代の流行によって希臘《ギリシャ》神話と聖書に取材したもの多く、中庭にはこの精力的多産家の墓があり、墓のうえに花壇がつくられ――何しろ往けども往けども静止する人体裸像の林で、出る頃には誰でもその神話中の一人物のようにひょうびょう[#「ひょうびょう」に傍点]としてしまうように出来ている。
 橋を渡ると名物の魚河岸だ。雑色的な人ごみ。空のいろを映して黒い川の水と、低い古い建物を背景に、それは幻怪きわまる言語と服装と女子供と海産物とが、じつに縦横に無秩序に交錯する「北海の活画」である。
 また或る頁。
 掘割りにそって曲りくねった、ボルスガアドのでこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]道を辿ることしばし、またクニッペルスボロの橋を過ぎれば、蕭々《しょしょう》・貧困・荒廃が何世紀かの渦をまく寒々しい裏町アナガアドの通りだ。
 ユニイクな建造物がある――|われらが救い主の教会《フォル・フレルセンス・キルク》。風変りな二八〇|呎《フィート》の高塔。一六一七年、時の名建築家ピンスボルグの建てたもので、塔の外側を奇妙な階段が螺旋状に巻いて頂上に達している。この螺旋段が、塔の内部でなしにそとについて、太陽をめがけて昇っている、つまり太陽を懼《おそ》れないものだ、じつに恐ろしいほど大それた設計である。各々方《おのおのがた》、左様では御座らぬか――というんで、当時の人たちが寄ってたかってさんざんピンスボルグをきめつけて異端者あつかいにしたので、可哀そうなピンスボルグはそれを苦に病んだ末、とうとうこの自分の建てた塔のてっぺんから地上へ身を投げて儚《はか》ない最期をとげたとのこと。いかにも十七世紀らしい話だ。そのピンスボルグの怨霊かどうかは知らないが、塔上の立像が、一八〇一年にネルソンの砲射を受けて片脚すっ[#「すっ」に傍点]飛んでしまい、それからこっち片っぽだけかわりに木の義足をつけている。
 また或る頁。
 水晶街の角にも有名な三位一体教会の円塔というのがある。このほうは外部にもなかにも階段がない。ただ急傾斜の道が内側をまわって上に出ている。伝説に曰く。ピイタア大帝――ついでだが、この人ほどいたるところに色んな足あとを遺《のこ》してる大帝もない――そのピイタア大帝、四頭立ての馬車を駆って塔内を駈けあがる、と。
 ほかの頁。
 TIVOLI。特色ある北国の遊園。ひろい地域に壮麗な樹木・芝生・音楽堂・劇場――アポロ、スカラ、パレス等――がちらばり、東西に二大料理店あり。アレナとウイヴェルス。後者は特に交響楽に名をとっているが、食べさせるものは両方ともかなりに乙《シック》。
 また他の頁。
 市の西北にロウぜンボルグ城あり。城外の庭園に「世界の子供の友」アンデルセンの像。
 またほかの頁。
 コペンハアゲンの人ぜんたいがみんな自分のものとして愛しているという市役所《ラアドハス》。市民的に宏大な広間《ホウル》に用のなさそうな人影がちらほら動いて、「市役所」の感じはすこしもない。宛然《えんぜん》「市楽所《しらくしょ》」の空気だ。横へ出たところに植込みをめぐらしたあき地があって、雪のように真っ白に鳩が下りている。母や姉らしい人につれられた子供達が餌《え》をやっているのだった。
 すぐそばの通りにふるい大きな家がある。
 多くの風雨を知っているらしい老齢の建物だ。それを「|老人の都会《シティ・オヴ・オウルド・エイジ》」と呼ぶ。名の示すごとく養老院で、収容者のなかで手の動くものは何かの手工芸をして一週間一クロウネずつ貰う。一クロウネは約わが半円である。私は想像する――あの窓からこの広場の鳩と子供のむれを見おろしながら、覚束《おぼつか》ない指さきで細工物にいそしむ、やっと生きているような老人たち。彼らにとって一週一クロウネはどんなにか待たれる享楽であり贅沢であろう! なぜならお爺さんは、それでたばこ[#「たばこ」に傍点]を買えるし、お婆さんは、日曜着の襟《えり》のまわりに笹絹《レイス》を飾ったり、それとも、好きなおじいさんへ煙草を贈ることも出来ようから――。
 医師、床屋、売店、庭園、演芸場、その他日常生活に必要なすべてがこのなかに完備していて、年老いた人達は一歩もそとへ出ないで済む。それじしんさまざまな小事件と感情とをつつむ一つの社会であろう。だから「老齢の都」という。この「都会」の窓から、その老市民たちが弱々しい手をふる。市役所の空地には子供と鳩との歓呼の声があがる。すると、それらに応えて、ひとりのせいの高い紳士が、そこの町角に立ち停まって笑いながら帽子に手をやっている。王様だ。コペンハアゲンの街上で人なみ外れて長身の紳士に出会ったら、現陛下クリスチャン十世と思って間違いない。じっさい陛下は普通人より首ひとつ高く、そして暇さえあるとひとりで町を歩くのが、その何よりの Royal hobby だからだ――こうしてこの「老人の町」と市役所の鳩と子供らと、微笑する巨人王クリスチャン十世陛下とを結びつけて、そこに一風景を心描するとき、私は、コペンハアゲンの、というより丁抹《デンマーク》の全生活をはっきり[#「はっきり」に傍点]と見るような気がする。
 もう一つ他の頁。
 夜。一|哩《マイル》の長線道《ランゲリイネ》を自由港まで散歩。片側は城砦。いっぽうは海峡の水。コペンハアゲン訪問者の忘れてならない一夕《いっせき》のアドヴェンチュアだ。
 附録の1。
 七|哩《マイル》北に丁抹《デンマーク》が国家的に誇っているリングビイの教育都市。グルンドトリッグの国民高等学校・リングビイ農業学校・丁抹《デンマーク》国立農民博物館・SETO。
 附録の2。
 二日がけでフィエン島のオデンス市へ。バングス・ボデル街のかどにH・Cアンデルセンの生家。いまは彼の記念博物館。小父さん小母さんの聖地《パレスタイン》だけに日本の「おじさん」巌谷小波《いわやさざなみ》、久留島武彦《くるしまたけひこ》なんかという名刺も散見。グラアブルダ・トルフ街郵便局のそばに、またアンデルセンの像。
 附録の3。
 買物。コペンハアゲンには世界的に権威ある店が二軒ある。ともに陶器店で、ロウヤル・ポウセリンとケエレル。妻は、日本へ帰ってからお菓子鉢にしたいといって、オステルガアドのケエレルで波斯青《ペルシャン・ブルウ》の一器をもとめる。
 ついでに、旅行中彼女の集めているものを列挙すると、第一に、方々の郷土服を着けた人形。第二に各地の|手提げ《ハンド・バッグ》、第三に――これはぜひ特筆大書を要する――各国婦人の美点。
 私の「趣味の蒐集」――巻煙草の空箱《あきばこ》。見聞。「がいはくなちしき
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング