Aその自慢の応接室へ私たちを招じ入れた。
 それはさして広くもない黒い板張りの一間で、カアテンから机かけ敷物にいたるまですべて和蘭《オランダ》領ジャヴァの物産をもって装飾してある、ちょっと東洋的な、感じのいい部屋だった。極彩色の古風な大時計がことに私たちの眼を惹いた――それはいいとして、カイゼルだが、こう聞いてみると悲観せざるを得ないようでもあるし、一面また、何しろ相手が生きてる人間のことだから、いまにもやって来ないとは保証出来ないので、大いに勇躍していいようにも思われる。どっちにしろ、絶対にこっちから襲って行くみちのない以上、全く老人のいうとおり、運命を信じ且《か》つ祈りつつ、暫らく待ってみるよりほか何らの方法もないということになる。で、この「神さまに忘れられた」ドュウルンに、あわれ一夜をあかすことに決心していると、パブスト老は二人のボウイをはじめ女中下男の一同をあつめて、誰でも、どこかでカイゼル、もしくはカイゼルに似た人――後姿でもいい――を見かけたものは、宙を飛んで急を私たちに告げよと申し渡している。珍しい日本人が舞いこんできたので老人何でもする気でいるのだ。召使い一統も命《めい》をかしこんで「YA・YA!」と口ぐちに答えている。私も知らん顔もしていられないから、老人へは葉巻を二本、他の連中へもそこばくの黄白《こうはく》を撒いて「どうぞ宜《よろ》しく」とやった。
 が、いつとも知れないその報告を当てに、ホテルの二階にのんべんだらり[#「のんべんだらり」に傍点]としているわけにも往かないから、またパブスト氏をつかまえてカイゼルの現在の人相をくわしく訊き質《ただ》すと、彼――というのは老人のいわゆるオウルド・ビリイ――は、この頃好んで、昔よく流行《はや》った灰色の両前の服を着て、からだは瘠《や》せて高く、ふるい麦藁帽子の下から白髪を覗かせ、それに赤黒い顔と白い顎ひげ、すこし左の肩を上げ気味に、ステッキでそこらの草や石をやたらに叩きながら、忙がしくて耐《たま》らないといったようにせっかち[#「せっかち」に傍点]に歩く――という。これもどうも平凡で、こんなお爺《じい》さんはざら[#「ざら」に傍点]にいそうだが、カイゼルなら村の人がみんな挨拶するからすぐ判るというので、そこでドン・キホウテとサンチオ・ハンザのように、ふたりはいよいよこっちからカイゼルをさがして、午後のドュウルンの村落へ立ちいでた。
 そうするとやはり往還すじに馬糞がダンスし、そのなかを猫が悠歩し、猫に向日葵《ひまわり》が話しかけ、木と家と乾草の塚と私たちの影が、いたずらにくっきりと地を這って、白日に物音ひとつなく、こうしてあるいていてもいつかうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠りそうになる。それでも私は、カイゼルに出会い次第取るべき態度、いうべき文句の数々を心中ひそかにととのえていた。何でもいいから見つけるや否、敬意と質問を引っさげて猟犬のごとくどこまでも肉迫することだ。そう私は決心していた。
 せまい村うちだから、すぐにカイゼル幽閉の家のまえへ出た。ちょっと土地の豪農といった構えで、アウチ風の門に門番が立っている。私がきく。
『EX・カイゼルはいまいますか。いま何しています?』
 彼は笑って答えない。しばらくしてこんなことを言った。
『薔薇園《ロザリアム》を見せてあげましょう――カイゼルのばら[#「ばら」に傍点]畠を。』
 そして切符のようなものを二枚渡してくれたので、念のため、
『幾らですか。』
『おぼしめしで結構です。』
 思うにカイゼルへのお賽銭《さいせん》であろう。そばに一文字に小穴のあいた木箱と訪問者名簿が置いてある。そこで私は金一ギルダ也をその穴へ落しこみ、日本語で日本東京と下へ名前を書いた。
 むこうに本館が見えて、あけはなした窓に白いレイスが動いている。傷ついたゲルマンの鷲《わし》の鳥籠だ。立って眺めていると、うしろに人のけはいがした。独逸《ドイツ》の児島高徳《こじまたかのり》に相違ない。老夫婦が一組、私たちがいるのも眼にはいらないふうで、感慨無量といった顔で佇《たたず》んでいた。
 それからロザリアムへまわる。邸宅と小道をへだてた一劃で、もとの皇帝ウィリアム二世は、ここで余念もなく薔薇をつくっているのだ。ちょうど季節もよかった。前陛下の御丹精になる色とりどりの花が咲き乱れ、そこここに二、三の園丁が鋏の音を立てて、上には、夏の空に団々たる雲のかたまりが静止していた。ここにも児島高徳らしい独逸人がかなり逍遥している。その児島君のひとりに頼んで、薔薇を背景に私たちをスナップしてもらう。
 邸は高い木に取りまかれ、鉄柵がめぐらしてある。その直ぐそとに小径《こみち》がついていて、落葉を踏みしだいた靴のあとが、てんめん[#「てんめん」に傍点]として去るに忍びない独逸製児島高徳の胸中と、私たちのような無責任な旅行者のものずきとを語っている。
 刑事のように私たちも長いこと家の周囲に張り込んだ。樹《こ》がくれの池にさざ[#「さざ」に傍点]波が立って、二階に見える真鍮《しんちゅう》のベッドの端が夕陽にきらめくまで――。
 気早に歩く灰いろの背広、草を打つステッキ――それは私の幻想だった。
 ドュウルンに夜がきて、夜が明けた。
 運命はついに私達のうえにほほえまなかった。が、私は会わなかったことを感謝している。前帝王が路傍に私という無礼者の奇襲を受けていらいら[#「いらいら」に傍点]する場面――老いたるウィルヘルムはいま心しずかに薔薇をつくっている。君! これでもうたくさんじゃあありませんか。
 あくる日はまた白日に物音ひとつない青天だった。
 ユウトラクト街道に馬糞の粉末が巻き上り、そのなかをのそり[#「のそり」に傍点]と猫が横ぎり、もう一匹よこぎり、二階ではきのうの女が編物をつづけ、それへ向日葵《ひまわり》が秋波を送り、退屈し切った麦の穂が――ユウトラクトの停車場で、ハンブルグ行きの汽車を待つあいだ、私たちはかの親切なるアムステルダムの紳士、ヴァン・ポウル氏へ一書を飛ばした。
 カイゼルに会い、いろいろと談じ食事をともにしました。特にあなたへ宜しくとのことでした。



底本:「踊る地平線(上)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
2003年6月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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