星あかりだ。
 あしたの天気は楽観していい。

   嘆きの原

 |尼院の森《ボア・ドュ・ラ・コム》、ソワアニの森――このソワアニはブラッセルの「ボア・ドュ・ブウロウニュ」だ――とにかく、みどりの反映で自動車内が、乗っている私も彼女も真っ青に見えるほど、いつまでもいつまでも森のなかばかり走ってる。森だからやたらに大木が生えて、その古い大木がまた出鱈目に枝を張って、枝の交錯から午後の陽が洩れて、土と朽葉《くちば》のにおいがつめたく鼻をついて、湖があったり、薪《まき》をしょった女が小路に自動車をよけていたり――そのうちに森を出たと思ったら、いきなり宿場みたいな埃《ほこり》くさい町の真ん中へ停めて、運転手の赤ら顔が私たちを振りかえった。
『あれです! 一八一五年六月十七、十八の両日、ウェリントン将軍の参謀本部となった家《うち》は。いまは村の郵便局ですがね。』
 私たちはウォタアルウ古戦場へ行く途中だった。いや、もうここがウォタアルウの町だという。見ると、いかさま「すっかり当時を心得て」いそうな建物が、ふるくて汚いくせに妙に威張って建っている。ここにおいてか私は、
『ははあ、そうかね。大したもんだね。』
 と一つ、亜米利加《アメリカ》人の観光客みたいに曖昧に感心しておいて、彼女を促し、ショファを引具《ひきぐ》してちょっとそのウェリントン大公の参謀本部を訪問する。
 二階が本部兼居間兼寝室だ。「すっかり当時を心得て」いそうなお婆さん――この家《や》の主婦兼ウォタアルウ郵便局長――が出て来て、
『これが将軍の使った椅子と机。』
『ははあ、大したもんですな。』
『これが将軍の寝台。』
『へえい! 大したもんですな。』
『これが将軍の――これが将軍の――これが将軍の――。』
 弾丸だの槍だのぼろぼろ[#「ぼろぼろ」に傍点]の肩章だの――もちろんすべて将軍の――を一まわり見て戸外《そと》へ出る。
『これが将軍の踏んだ階段だね。』
 私がこういって木の梯子《はしご》段をこつこつ蹴ったら、運転手は眉を上げて保証した。
『もちろん、そうです。』
 じぶんのものみたいだ。この運転手はブラッセルの町で拾ったのだが、若いにしてはじつによく「当時を心得」ていて、把輪《ホイイル》を握りながら、散策中の鶏や犬や、時には村人をあわや[#「あわや」に傍点]轢《ひ》きそうになるのもかまわず、はんぶんうしろを向いて盛んに饒舌《しゃべ》り散らす。
『ええ、十七日の十一時ごろから明け方へかけて土砂ぶり、ナポレオンの兵隊は足拵《あしごしら》えがよくなかった――おまけに大きな溝がありましてね。いまそこへ行きますが。』
 そこへ行こうとして曲り角へ出る。オテル・ドュ・コロウヌと看板を上げた村の倶楽部《くらぶ》みたいなささやか[#「ささやか」に傍点]な居酒屋がある。
『一八六一年、ユーゴウはこの家に滞在して、あの「|ああ無情《レ・ミゼラブル》」のなかのウォタアルウのところを書いたんです。やっぱり実感を得に来たんでしょうなあ。』
 ここでも運転手は自分が書いたような顔をする。ぞろぞろ下りて這入りこむ。
『ユーゴウのいた部屋を見たい。』
『ビイルか葡萄酒《ぶどうしゅ》かレモナアドか、何を飲む?』
 バアのむこうに控えてる女は一こうに要領を得ない。その要領を得ないところを掴まえていろいろに詰問すると、まことユーゴウのいたことは事実に相違ないが、もう代が変ってすっかり判らなくなっているという。この問答を聞いて、むこうで村の坊さんがひとりでにやにや[#「にやにや」に傍点]笑ってる。仕方がないから運転手君と三人でレモナアドの大杯を傾ける。今こいつに酒精《アルコール》分を許しては大へんだからだ。
 それからまた田舎みち。モン聖《サント》ジャンの野原。ここがほんとの戦場だ。陽がかんかん[#「かんかん」に傍点]照って「土のピラミッド」が立ってる。下に「当時のパノラマ」の見世物がある。這入ってうっかりしてるとのこのこ[#「のこのこ」に傍点]案内者がついてきて勝手にまくし立てる。
『この時ナポレオンは兵七万一千九百四十七を擁し、あれなる白い百姓家プランシノアに陣取りまして午前九時、あい変らずこう左手をうしろに廻して白馬に跨《また》がり――それに対し聯合軍は、こちらのブラン・ラルウの街道を押さえ――。』
 見たようなことを言ってる。
『ははあ、どうも大したもんだな。』
『大変でしたろうねえ、ほんとに。』
 ほどよく感心してビラミッドへ登ると、頂上に獅子像が頑張っていて、いま見たパノラマの現場は指呼《しこ》のうちだ。
 天地悠久と雲が流れて、白耳義《ベルギー》の野づらはうらうら[#「うらうら」に傍点]と燃えている。ここにも「すっかり当時を心得」たのが網を張っていて、
『あれ! あすこに見えまする一本の
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