ノ傍点]と見つめていると、私はいつしか、いまこの天空のうえで故障が起って――操縦者《パイロット》の心臓麻痺・突然の発狂ということもあり得る――客一同は総立ちになり、誰かが躍り上ってリッピング・パネルを破り、彼女は私にしがみ[#「しがみ」に傍点]つき、女たちは泣き叫び、男はただうろうろ[#「うろうろ」に傍点]し――そのあいだも、一団の火煙と化した機は螺旋《らせん》をえがいて落下しつつある! としたらどうだ! などと、内心安全を確信していればこそ、とかくこんな場面も空想にのぼるんだろうが、いままでの空の犠牲者――早い話が何とかスタインにしろT・Aのタイピストにしろ――は、誰でもこの、ぼんやりながら根強い、自分だけは大丈夫にきまっているという内心の確信にまかせて機上の人となったに相違ない。
そう思うと、何とも飛んだことをしたような気がしてくる――ものの、この快翔に一たい何が起り得るというのだ?
ああ、悪魔だった。そも悪魔に、落ちたり死んだりすることが考えられようか。悪魔! 悪魔! 赤いももひきに赤いまんと[#「まんと」に傍点]、蝸牛《かたつむり》の頭巾に小意気《こいき》な鬚のメフィストフェレスは、いま銀のつばさを一ぱいに張ってこの大ぞらを飛行している。悠々とそして閑々と、法規と礼譲と道徳とあらゆる小善とを勇敢に無視して、そのうえを往く「空の無頼漢《アパッシュ》」だ。何という近代的に無責任なCHIC!
BUMP! そしてRolling。
窓から手を出す。指が切れて飛びそうだ。つめたいのか痛いのかちょっと感覚の判断に迷う。
ボウイが正面壁間《ブルワアク》の黒板へ何か書き出す。みなの眼が白墨へあつまる。NOW OVER と上にぺんき[#「ぺんき」に傍点]で出ていて、ボウイのチョウクがあとをつけ足す。
NOW OVER Sevenoak.
セヴノウクの町だ。
ははあ、固まってる。うすっぺらの家が、後園《バック・ガアデン》が、洗濯物が、木が路が人が。
鶏? それとも犬かしら? 白い広場に何かぽつんと黒点が見える。ゆらゆら[#「ゆらゆら」に傍点]とセヴノウクがうしろへすっ飛んだ。
畑だ。
森だ。
野だ。
畑は赤・黄・白の幾何的だんだら。森は黒い集団。野は雲の投影。
機は早い。
NOW OVER Tombridge.
おや! 帯が落ちてる。何だ、国道《ハイウェイ》じゃないか。ばかに曲りくねってるなあ。無数のぽちぽちがじっ[#「じっ」に傍点]としてる。自動車の列だ。あれでも早いつもりで走ってるんだろう。そのうえをすう[#「すう」に傍点]と飛行機の影が刷《は》いてゆく。
川がある。橋がある。人が渡ってる。
川は白い絹糸、橋は六号活字の一、人はペンさきのダットだ。すぐうえに太陽があり、まわりにうすい雲が飛び去り、下は一めんに不可思議なパノラマ――すべての王国と共和国と財宝と野心と光栄と、それらがみな私への所属をねがってひろがっている。何という地上の媚態、嬌姿! だが、現世《うつしよ》の舞台は何と悪魔の眼にあわれに貧しく映ることよ!
私たちが夢にも知らないうちに、科学はこの赫灼《かくしゃく》たる動きとパッションをこころゆくまで享楽していたのだ。銀翼号と他の飛行機たちよ! このとおり頭を下げる。おんみらこそは新世紀の芸術だ。私たちの最大の傑作――あ! 汽車だよあれは。二寸ほどの列車! おい、見ろみろ、はっはっは、何てしたり[#「したり」に傍点]顔の、こましゃくれた爬虫類だろう!
NOW OVER Dungeness.
谷・巨木・まっくろな突起。
岩・白砂・かがやくうんも[#「うんも」に傍点]。
地形に変化が多いと機は動揺する。それを逃げて一段たかく上げ舵《かじ》をとった時、私たちの下にまんまん[#「まんまん」に傍点]たる青い敷物があった。
ドウヴァ海峡だ。
AHA! 水銀の池。
乗客はみんな窓から覗いて、またへらへら[#「へらへら」に傍点]笑い出した。何となく馬鹿々々しく擽《くす》ぐったいのだ。いやにしとやかに陽に光って、さわるとぺこん[#「ぺこん」に傍点]と凹《へこ》みそうな、ふっくらとした水の肌――こいつは落ちても痛くないぞ。
しかし、何とこれは美々《びび》しく印刷された地図だろう! 日の矢と、それを反射する段々の小皺と。
海峡の色は私の食慾をそそる。
みんなと一しょに私たちも空中でランチをたべる。魔法つかいの会食。舌のサンドウィッチにトマト・桃・バナナ。彼女は水をもらう。飲みながらほほえむ。私もほほえむ。
彼女の口が大きく動いて、三つの日本発音を私に暗示する――オ・フ・ネ、と。
やあ! ほんとにオフネだ、オフネだ! 赤い立派なオフネが一そう真下の水に泳いでいる。これは汽船でもなければ、船で
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