て両手をこすろう――。
 悪魔だ。
 BUMP! そして Rolling。
 機は「無」のなかを一路駈け上っている。太陽をめざし、神を望んで。
 〔Bapte^me de L'Air !〕
 大きな赤い屋根、頭からすぐ脚の生えている人間たち、一枚二枚と数えられる自動車――どうしてこの町はこう平べったいんだろう?
 や! 丸い穴、四角い穴、何だ、煙突だ。やあ、テニスしてらあ! 馬鹿だなあ、よして上を見てらあ。顔が靴をはいてるぞ! やあい、手なんか翳《かざ》すない!
 きちょうめんに長方形なテニス・コウトとその附近がむらさき色に澱《よど》んで見える。飛行機の影が落ちているのだ。
 BUMP!
 すでに高度は千|米《メートル》以上。百|米《メートル》の速力。これから千乃至五千の高さを揺曳《ようえい》して飛ぶ。一分間に汽車の窓から見る視野の二十倍が一秒のあいだに私たちのまえ――いや、下にあるわけで、機の真下の一地点だけでも、まさに六|哩《マイル》平方にあたる勘定だ。
 もう疾《と》うにクロイドンを飛び出したのだろう。人家がまばらになって、バリカンのあとみたいな耕地がGrrrrと斜めにゆるくうしろへ流れつつある。
 空の濁っているのが倫敦《ロンドン》の方角らしい。
 機首はきまった――一直線に巴里《パリー》ブウルジェへ!
 こうなると私たちには何らの恐怖も危惧もない。あるのはただこみ上げてくる愉悦と単純な驚異の連続だけだ。
 洋々たる「空の怒濤」。
 おとこの雲。
 おんなの雲。
 こどもの雲。
 みんな仲よく私たちのまわりに遊んでる。さわいでる。笑ってる。
 笑うと言えば、いままで他愛なく笑っていた機内の人々は、急にじぶん達の笑いに気がついて、その笑ったことが恥しいように、あわてて「人間界」の威儀をつくり出した。そこで狂奔する音響のなかで、私のうしろのお婆さんは毎日郵報《デエリイ・メイル》を拡げ出し、商人らしい中年の紳士は小鞄をあけて書類を読みはじめ、女学生は林檎《りんご》を剥《む》き、女の児は窓へつかまり、その母親は背後から女の児をつかまえ、もうひとりの若い男はよろけながらWCへ立ち、ボウイが飲み物を売りにくる――いかにも旅行の一頁らしい光景。
 彼女が私へノウトを渡す。筆談だ。書いてある。
『イカガ?』
 私が返事をかく。
『ヘイキ。』
 彼女がほほえむ。私もほほえむ。それからまた、むさぼるように二人は下界の観察だ。
 プロペラの音、その風、自信に満ちみちて大きくうなずく銀いろの翼、私の窓のそとに泣くようにふるえている、一本の寒い綱《ロウプ》。
 地球はいま私たちに関係なく廻っている。
 何たるそれはのろ[#「のろ」に傍点]くさい文明であろう! じつに笑うに耐えた平面・矮小・狭隘《きょうあい》・滑稽そのものの社会であり、歴史であり、思想であり、「人生の悲劇または喜劇」であろう! なんというパセテックなにんげん[#「にんげん」に傍点]日々の希望であり、Patho であり、微笑であることよ!
 上から見る生活の白じらしいはかなさ――鳥はすべて虚無主義者に相違ないと私は思う。
 機内はあかるい。天井に薄い布を張った菱形の非常口があるからだ。|裂く羽目《リッピング・パネル》である。Ripping Panel ―― in case of emergency, pull ring sharply. こう読める。忘れていた気味のわるい思いがふっ[#「ふっ」に傍点]とまた頭を出しかける。No Smoking とも大書してある。Not Even Abdullas とすぐあとに断ってある。アブドュラは軽いから煙草じゃないなんて言う人もあるとみえる。ちょっと引っぱれば取れるように、頭のうえに救命帯が細い糸一ぽんで吊してある。これを見ていてあんまり気もちのいいものじゃない。Life−Belt, Pull Only in Emergency ――。
 私は思い出す。つい一週間ほどまえ、なんとかスタインという倫敦《ロンドン》財界の大頭《おおあたま》――すでに何とかスタインである以上、それはつねに財界の黒幕にきまっている――が、海峡のうえで飛行機から落ちて、新聞と取引所をはじめロンドンぜんたいが大さわぎをしていたことを。そして、その死体がきのう海岸で発見されて、先刻クロイドン飛行場《エロドロウム》にそういう掲示が出ていたことを。一昨日はまた、これは旅客機ではないが、このT・Aの飛行機がBUMPと落ちて、ちょっと Joy−ride としゃれていた会社の女タイピストと事務員の一行を飛行家とともに全部恨みっこなしに殺している。じつはこれらの事実は、私が考えまい考えまいと努力していたところのものだが、「|裂く羽目《リッピング・パネル》」だの救命帯だのをじっ[#「じっ」
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