一そう遠くへ追いやられる。出発が近いのだろう。みんな無言で一せいに椅子のはしを掴む。と、正面の小窓をとおして飛行士の運転房《カックピット》が見える。そら! 乗ってきた。色の黒い「空先案内《パイロット》」の横顔。や! 笑ってるぞ! 機外の助手に手を上げて――白い歯、太い首、われらの英雄よ! 君はゆうべ充分の眠りをとってくれたろうな。身心爽快だろうな。とにかく、こうしていま二十二個の生命――私と彼女と君じしんとボウイさんのとを通算して――が、すっかり君ひとりの技能と沈着と「|咄嗟の考察《クイック・マインド》」とにかかっているのだ。君、この飛行さえ無事にやりとげたら、僕は同乗客に演説して君のためにトロフィを贈ろう。ブライトンに別荘を建てて献じよう。君の子供たちの教育費は一さい僕らが負担してもいい――。
 空は誘惑してやまない。
 飛行士の巾ひろい背中がまえへしゃがんだ。
 BUMP!
 機は地上をすべり出す。
 ――GRRRR・轟々爆々―― and then, BUMP!
 BUMP!
 BUMP!
 BUMP!
 はじめは遅く、ようやく早く、それからあせるように※[#「足+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くように、咆哮し呶号して機は滑走をつづける。
 もう誰もそとへなぞ何らの注意をはらう人はない。みな凝結したように無言のまま、「人生の足が土をはなれる瞬間」をじっ[#「じっ」に傍点]としずかに期待している。
 私は心描する――倫敦《ロンドン》から巴里《パリー》へ弧のように架けられた七色の虹の橋を。
 前世紀人のえがたいその虹を踏んで私たちはいま天を渡ろうとしているのだ。
 虹の橋――何という人類の夢の実現! なんという際限もない科学の征服慾!
 ――まるで射撃中の野砲の内部にでもいるよう、ぷろぺらと機関の音・音・音が完全に鼓膜を独占して、耳のそばで何か言われても金魚があくび[#「あくび」に傍点]してるように口の開閉が見えるだけだ。
 となりの彼女がしきりに私を突ついては前を指さす。そしてさかんに何か耳へ詰めている。
 へんなことをすると思ってよく見ると、虹の橋なんかとひとり勝手に感激していて気がつかなかったが、前列の椅子の背に、なにか書いたものといっしょに一きれの綿《わた》がはさんである。
「空の旅行者への注意」――とあるから、さっそく読んでみると、左のごとし。
[#ここから2字下げ]
「帝国空路社《インピリアル・エアウェイス》――LTD――は、この、天空旅行の便宜のために、特に以下列記されたる個条を必ず一読あるべく、われらの乗客各位がそれほど充分親切であらんことを乞いねがうものなり。何となれば、そはこれらの事項を各位の満足にまで説明すればなり。
一、飛行機――空における――の正規の運動。
二、いかにして最大の安楽のうちに天を往くべきか。
三、非常時の対策、およびその場合の心得。」
[#ここで字下げ終わり]
 第三がずきん[#「ずきん」に傍点]と私の胸を衝《つ》いたこというまでもない。すなわち、あえて依頼を俟《ま》たずとも急遽一読すべく充分以上に親切である。
[#ここから1字下げ]
「べつに飛行機に乗るために特別の着物は要りません。長時間のドライヴに適当なものなら何でも間にあいます。
 離陸のさい、たとえ機が飛行場《エロドロウム》の隅へぶつかりそうに突進することがあっても決して驚いたりあわてたりしてはなりません。飛行機はつねに風にむかって離着陸するものですから、こうしてしばらく滑走しているうちに、いつとはなしに自然に地面から浮かぶのです。
 この綿をむしって耳へおつめ下さい。エンジンの音から聴覚を保護するために。
 気圧の関係で一時かるいつんぼ[#「つんぼ」に傍点]になることがあります。そうしたら鼻の穴をつまんでおいて力んで下さい。あるいは降機《ランデンク》のときにちょっと唾を飲みこんでもよろしい。すぐ直ります。
 方向をかえる場合、飛行機はよく水平を破って一ぽうに急傾斜しますが、これはまったく安全な行動であります。
 いわゆる真空《エア》ぽけっと[#「ぽけっと」に傍点]なるものは絶対に存在しません。BUMPと称する小急下降運動は、ちょうど船に波浪が作用するように、気流の上下動に乗って機が小刻みに揺れるだけのことです。
 高いビルデングのうえから下を覗いたりする時の眼のくらくら[#「くらくら」に傍点]とする感じは、飛行機には、全然ありません。地上とのあいだに何らの物的|接続《コネクション》がないからであります。
 船に弱い人でも飛行機には酔いません。すこしでも気分のわるい方には、一こと仰言《おっしゃ》れば、ボウイが備え付けの薬品をさしあげます。吐壺《カスピドア》も一つずつ皆さんの足もとにあります。が、|空酔い《エア・シクネス》
前へ 次へ
全17ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング