!」を含んだ声を発することであろうと内心期待して、事実、そのためにちょっと言葉を切って先方に機会をあたえたくらいだけれど、鈍感に洋服を着せたごとき感あるかの番頭は、依然ぽかんとして、
『ミスタア誰《フウ》?』
『ミスタ・ウザエモン・イチムラ――。』
羽左《うざ》もミスタア・ウザエモンじゃあどうもめりはり[#「めりはり」に傍点]が合わなくて申訳ないが、これもこの場合まことに致し方ないというものは、橘家《たちばなや》さんや大師匠ではこの赤毛の「おとこしゅ」に一そう通じっこないんだから――。
現にまだ頓《とん》と合点がゆかないとみえて、かれ番頭《クラアク》は、灰いろの眼をぱちくりさせて謎に面したように黙っている。仮りにも羽左衛門《たちばなや》を知らないなんて、何たる――なんかといくらむか[#「むか」に傍点]ついてみたところで、ここは英吉利《イギリス》ロンドンの、しかもさっきもいうとおりのメイフェアである。英詩のごとく飽くまで上品に、そして、何よりも怒ってはいけない。
ここで、機をみるに敏な私は、とっさに羽左衛門こと市村録太郎《いちむらろくたろう》氏を英語ふうにもじったのである。
『The party I want is Mr. ラックテロ・アイチミュウラ。
Now, don't say you don't know him !』
『MR・R・アイチミュウラ、え?』
とサンスクリットの呪文を唱えるように口中に繰りかえしながら、「羽左衛門」を知らないほど間の抜けた彼の顔にも、漸時に了解の情がそれこそ倫敦《ロンドン》のしののめ[#「しののめ」に傍点]のように拡がってきて、
『|乞う待て《プリイズ・ウエイト》。』
なんかと仔細らしく指を上げてみせたのち、宿帳のところへ行って暫らく頁をめくっていたが、やがてのことに発見の喜悦とともに、
『おお! ミスタ・アイチミュラ、いええす、居ます、たしかにそういう名の人が泊っています――が、今は? と。さあ、お部屋にいますかどうか――。』
というわけで、ようよう電話で羽左衛門の在室を突きとめ、それっ! とばかりにこうして昇降機上の人となってきた六階の六三七号室である。
ノック。開扉《かいひ》。侵入。来意。
『どうぞちょっとお待ち下さい。いまちょうどひげ[#「ひげ」に傍点]を剃っておりますから。』
という東道《とうどう》役のことばに、そのまま穏便に別室へ通れば、眼の下にはピカデリイ・サアカスからハイド・パアクへと、およびその反対の交通――車輪と靴による――のざわめき、鉄柵のむこうにグリイン公園の芝生、メイフェアの家々の煙突の林、車道を横ぎる女、手を上げてタキシを呼びとめる老紳士、郵便箱をあけて袋いっぱいにさらえ込んでいる配達夫、それを見物している使小僧《メッセンジャア》、スワン&エドガアの赤塗り荷物自動車、If It's Trueman, It Is a Beer の看板――それらが静粛に扁平に鳥瞰されて、朝のおそいここらにも、さすがにもう昼の事務の開始されているのを知る。が、一たび眼を転じて室内を見わたすや、かたわらの卓子《テーブル》に、主人公羽左衛門が愛読するらしく「面白くてため[#「ため」に傍点]になる」日本の娯楽雑誌――幕末剣客・妖婦列伝・成功秘訣・名士訓話等々満載――が二、三投げ出してあるきり、ここばかりはなつかしき故国の勇敢な延長だ。
いかさま「日本|娘の寵神《フラッパア・アイドル》――カブキの偶像」が正《まさ》しく鬚《ひげ》をそっているとみえて、水の音が長閑《のどか》にきこえてくる。そこで、その雑誌の頁をぱらぱらと繰っていた私は、間もなく、すぐ眼のまえの戸口に、黒と銀の派手なドレッシング・ガウンをまとった半白《はんぱく》の一人物が、タオルで頬を撫でながらぽつん[#「ぽつん」に傍点]と直立しているのに気がついた。市村羽左衛門の登場――はいいが、なるほど今まで「剃《あた》」っていたらしく、しきりに顎《あご》のあたりを気にして拭いている。縞フランネルのパジャマのずぼんをだぶだぶに折返して――西洋のは脚が長いから――その上から洒落た部屋着《ガウン》なんか引っかけてはいるものの、だんまりのうちによく見ると、やっぱり弁天小僧の、切られ与三の、直侍の、そうしてKABUKIの「大たちばな」だ。いくら西洋のドン・ジュアンに扮したって争われないことには耳が裏切っている。と同時に私は、この倫敦《ロンドン》ピカデリイとメイフェアのあいだにあって、たしかにちょうん[#「ちょうん」に傍点]と木の頭《かしら》を聞き、のし[#「のし」に傍点]のついた引幕の揺れを見、あの雑色的な「おしばや」の空気を感じ、ぷうんと濃厚な日本のにおいを嗅ぎ、弁松の膳《ぜん》――幕あいの食堂で――にむかって衛生|御割箸《おんわりばし
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