Aタイプと階級はじつに決定的に極限されていて、いかにもアドルフ・マンジュウを崇拝おく能《あた》わざるらしい、そして、一眼でいいからその巴里の花嫁なる人を「見てやり」たいと言いたげな、そこらの店の売子、タイピスト、女事務員、女給、老嬢、女房たちである。これらの低い、それだけまた妙に真剣な人たちのうえに、ひとつの変に競争的な空気が漂って、青い空の下、黒い建物に挟まれて数えきれない女の顔が凝然といならび、製本中の本の頁のようにいやにきちんと揃っているのだ。ちょっと不思議な圧迫を感ずる。
思うにアドルフ・マンジュウの映像は、この人々の胸において、それぞれひとつの絶対な存在であるに相違ない。この近代商業芸術の創造したせるろいど[#「せるろいど」に傍点]英雄に対するファンなるもののこころもちは、ひどく個人的――恋がひどく個人的であるように――で、そうして恐ろしいまでにひたむき――ふたたび恋がそうであるように――なものに考えられる。すくなくとも、女たちの眼が、みんな一ようにこう意気込んでいるように見えるのだ。
つまり、アドルフ・マンジュウを見るということは、この女群の一人ひとりにとって、聖なる概念の現象化――早くいえば、そのままに奇蹟を意味するのだろう。
奇蹟を待つ人々はしいん[#「しいん」に傍点]としている。
ただ、まえへ割って出ようとする女を、ほかの女が肘《ひじ》で争っているくらいのものだ。それも、いぎりす人のことである。すべてが可笑《おか》しいほど、厳粛な沈黙と、静寂のうちに――。
私たちも朝飯の食卓で新聞の記事を見て、折から事あれかしと待ちかまえていたところだったので、こうしてぶらりとアドルフ・マンジュウを見物に出てきたのだ。べつに見てどうしようという意志もないから、このとおりおとなしくうしろのほうに引っこんでいる。
三々伍々あるいている人たちが参加して、群集はふえる一ぽうだ。なかには、何だか知らずに立ちどまっている人も多いらしい。あちこちでおたがいに訊きあっている。きっと、皇太子殿下《プリンス・オヴ・ウェイルス》がいま亜弗利加《アフリカ》旅行へ出発するところだ、ことのいや、皇太子殿下がいま亜弗利加旅行からおかえりになるところだとのこと、いろいろ取り沙汰がたいへんだとみえて、何かさかんに言いふらしている物識顔《ものしりがお》と、それに応じてしきりにうなずいてい
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