Aなるほど問題は食物に相違ないが、その奥底に、飲食物なる最も端的な本能的なかたちを採って「遠い祖国」への恋ごころが――可哀そうにも!――動いていることを考えていただきたい。いやに辞を弄して自分の意地きたないところを弁解これ努めているようだが、とまれ、この「日本食へのあこがれ」―― only too often 私と彼女はこの異郷の発作におそわれる――ばかりは、日本に居ることによってあまりにその境遇に狎《な》れしたしみ、恵まれた運命に感謝することさえ忘れている大それた諸君《みなさん》には、とうてい察しが届くまいと私は逸早くあきらめている。しかし、私は確信する。私がこの紙とペンに託して私の最善をつくしたなら――何と大変なことになったものよ!――すくなくとも幾らかの実感が滲《にじ》み出て、それが諸君を打たずにはおかないであろうと。
 こと食べ物に関して来たらつい[#「つい」に傍点]むきになって申訳ないが、ま、一さいの議論はあと廻しにして早速SAKURAの戸をあけるとしよう。
 戸を開けると、倫敦《ロンドン》チャアリング・クロスのそばに、この日本御料理さくら[#「さくら」に傍点]である。
 うす暗い帳場のわきを通って階下《した》の食堂へ出る。高い窓から採光してあるだけなので、くもった日には昼でも電灯がともっている。壁によって白布の食卓、中央の机には「なつかしい故国の新聞」が二、三種綴ってあって、久方ぶりに相見《あいまみ》える餅菓子、どら[#「どら」に傍点]焼・ようかん・金つばの類が硝子《ガラス》器のうえにほとんど宗教的尊崇をもってうやうやしく安置してある。このろんどんの真ん中に、ここだけは切り離されたように見るもの聞く物すべてが「日本」だ。いつ行っても大概どの卓子《テーブル》もふさがっていて、AHA! なんと多勢のにっぽん人! みんな嬉しいことには私たちとおなじ黒い髪、黄色の皮膚、眼のつり上った真面目な顔、高い頬骨と短い四肢――地位と職業もほとんど一定している。正金《しょうきん》のAさん・住友のB氏・三井のCさん・郵船のD君・文部省留学生E教授・大使館のFさん――夫妻・子供・それに日本から伴《つ》れてきている女中――新聞社特派員のG君・「商業視察」のHさん・海外研究員のT君・寄港中の機関長J氏――これらは、すこし大きな欧羅巴《ヨーロッパ》の町ならどこでもかならず見参する「在
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