。それだって同居人と日用品商人の手垢で黒くよごれた木の門から、呼鈴のこわれたままになっている入口のあいだには、芝生のかわりに赤土と石ころがあって、重病人のような林檎《りんご》の樹の下に忘れな草が咲いていた。うしろの庭は塵埃すて場だった。そして朝晩はどの家からも不健康な料理油のにおいと赤んぼの泣声とが、五月の雨とともに街路に面する窓という窓のかあてん[#「かあてん」に傍点]をそよがせていた。風雨に着色された木柵のところどころを、真あたらしい板で不器用に修繕したあとが、うすあかりのなかにまるで傷口のように生々しかった。塀にそって金いろの水蝋樹《いばた》が芽をそろえていた。ことによると、雨を浴びたそのあざやかな黄が瓦斯《ガス》灯の光線に反射して、それでこうも夜の室内が明るいのかも知れなかったが、この頃のロンドンは午後の九時十時がまだ夕ぐれの色なのだ。そのうえ三時にはもうぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]とした朝の気が雨といっしょに青っぽく漂いわたって、牛乳配達の馬のひづめが地流れのする固い石畳を鳴らして過ぎる。つぎには、黒人のような石炭屋が大型貨物自動車に山とつんだ石炭ぶくろの上に突っ立って、むかしの倫敦呼声《ロンドン・クライ》のおもかげをつたえて咽喉《のど》自慢らしく叫んでくる。
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こうる・まあああん!
こうる・まあああん!
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そうすると、雨のなかをあちこちの家から細君や娘たちが走り出てその日の石炭を買い込む。五月だというのに、寒い雨のおかげで、人は一日炉のまえに椅子を引いて暮らしているのだ。
とにかく人をめらんこりい[#「めらんこりい」に傍点]にする雨が day after day つづいてゆく。四六時ちゅう勝手に降ったり上ったりする、じつに無意義な灰色の水粒だ。ろんどんの五月の雨よ。呪われてあれ!
May in England ――多くの詩人と、より多くの詩の追随者たちによって、薔薇《ばら》・ひばり・日光・微風・花の香・田舎みち・濃い木影なぞと古来讃美されてきた五月のろんどんだから、さぞ色彩的な生活情緒が自然に人事に高唱されていることだろうと思ったら、ALAS! 異国人にとって倫敦《ロンドン》の五月はこんなにまで不人情につめたく感じられる。げんに雨と靉日《あいじつ》と落莫《らくばく》たるただずまいとが、いましっかり私を押さえつけて、この多角的な怪物の把握で窒息させようとしているくらいだ。
WHY! ああ・いえす、しつこい歯痛とともに鬱々として焦立《いらだ》たしいものの代表に使われるほど、世界的に有名な London weather ――それが私に作用しつつあるのだ。
私たちだって、旅行者のもつ俗な善意《グッド・ウイル》と口笛の気軽さで、野花とみどりの斜面と羊のむれのケント州の心臓を走って、「ある日大きな倫敦《ロンドン》へ愛蘭《アイルランド》人がやってきた」ように、黒いヴィクトリア停車場へ着いたものだった。それを老嬢ロンドンは、老嬢に特有の白眼と冬の陽ざしと煤《すす》けた建物の並立とでごく儀式的に迎えてくれた。なんという殷賑《いんしん》な、そして莫大な田舎町《ヒック・バアグ》であろう! これが私の組織を電閃《フラッシ》し去った正直な第一印象だった。見わたすところ、家も人も路も権威ある濃灰色《オクスフォウド》の一いろの歴史的凝結にすぎない。そして above all ――雨。私の部屋の窓硝子に、week in, week out ほそい水の糸をひく五月の雨。GAWD!
君!
ぼんやりと椅子に崩れている私は、まぶたのうらに、太陽の接吻にめぐまれた日本の五月の思い出をころがしている。眼をつぶると、ひとりでに日本と日本の日光が浮かび出てくるのだ。五月と言えば、わがにほん[#「にほん」に傍点]国では風もないのにひらひら[#「ひらひら」に傍点]と「サクラ」が散り、桜の梢から Hiroshige の Fuji−Yama がほほえみ、ひるがえる燕《つばめ》と女の袂《たもと》・気の早い麦藁帽とぱらそる――が、現実の私のまえには、窓枠のなかの雨の風景画が二枚、まるで美術館のように並んで壁にひらいているきりだ。
石と鉄と石炭の巨大な暗黒の底に白いしぶき[#「しぶき」に傍点]をあげて、くろ光りにひかる道路に、驀進《ばくしん》する自動車の灯火がながく流れている。そこには、空気のかわりに蒼然たる水滴が濃く宙を占めて、こうして見ていると、まるで私たちじしんが魚類に化身したような気がする。またしても私のこころに日本の新緑が萌え上ってくる。私は彼女を見た。彼女は煖炉《だんろ》のまえにしゃがんでしきりに石炭の火をくずしている。
で、私はやはり私の窓へかえる。があっ[#「があっ」に傍点]という音が走ったかと、
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