――、医者――人類の――だのが一々|叮嚀《ていねい》にその住所姓名位階とともに列記してあって、それから各回の競馬に出場する光栄ある馬族の生立ち、重量、騎手、色分等々々を順序を追って個人的に――じゃない、個馬的に記述してあるんだが、いまそれに眼をとおしている暇はない。ただ番組のうらを見ると「観客諸氏にむかって一枚の番組につき公定価格の金六|片《ペンス》以上を決して支払うことのないように非常に熱心に依頼するものである」なんかんと大きな字で書いてある。六片のものを六|志《シリン》はおろか六|磅《ポンド》にも売りつけるやつがないとは限らない。忘れてはいけない。ここは詐欺と掏摸《すり》とこそ[#「こそ」に傍点]泥が組織的に横行する権利のある競馬場だからだ。私が、財布、時計、ETC――もちろん自分の――の存在を一応確認してから、つづく三人にこの忠告を与えると、彼女は写真機を下げる手に力を入れ、ナオミ・グラハム夫人はオオサカ真珠の首飾りにちょっと触ってみ、最後にブリグス青年は照れたようににやにや[#「にやにや」に傍点]した。私はそんなつもりで言ったんじゃあないが、ことによるとかれブリグスは、かねて自分の意図する活躍に対し先まわりして警告されたように感じたのかも知れない。あるいは単に、良心のほか失うべき何物を有《も》たないことを、このにやにや[#「にやにや」に傍点]によって表明した気なのだろう。どっちでもいい。
 そんなことはどっちでもいい――として、さて、ふたたび瞳をあげてエプソム草丘《ダウン》を見わたすと――。
 視線の届く限り茫漠たる芝生の起伏に、ありとあらゆる乗物と人種と高調と体臭――馬とそうして人の――と雑色と溌剌と陽光と――とにかく、自動車を構内《エンクロウジュア》へ入れようというので、警官の保護のもとに狭い入口を通ろうとしていると、耳の近くで大声がした。
 もっとも、はじめから声はいろいろしているんだが、これは、伯爵ずくめのいぎりす競馬のまんなかにめずらしくも南部あめりかの旋律を帯びていたから、とっさに私を振りかえらせるに充分だった。
 真珠王に真珠女王という、帽子から衣服ぜんたいに隙間もなく貝ぼたんを縫いつけた一組の男女が、慈善病院か何かの資金をあつめるために、バンジョウに合わせて声いっぱいに唄っている。
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河《リヴァ》のお爺さん
お爺さんの河《リヴァ》!
何もかも知っていて
だがしかし黙って
ただじっと流れてゆく
お前は河《リヴァ》のお爺さん
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 ――河《リヴァ》はあのミシシピのことだ。いま倫敦《ロンドン》のドルウリイ・レイン座は、エドナ・ファウバアの小説からとった、亜米利加《アメリカ》渡来の楽劇「芝居舟《ショウ・ボウト》」を演《だ》して大当りを取っているが、そのなかでポウル・ロウブスンという黒人のテノルが歌う「河の唄」が人気を博して、ここでこの真珠王と女王がうたっているのもその「芝居舟《ショウ・ボウト》」の一節だった。
 ま、これもどうでもいいとして――。
 自動車は五|志《シリン》かそこらでそとへ預《パアク》しておくことも出来るが、私たちは、青年ブリグスがこすく立ち廻った結果、大観覧席のすぐまえ、コウスに近いところへ割り込んで行って、車に乗ったまま見物することになった。すると、どこからともなく一人の女が切符をもって場所代を取りにくる。一|磅《ポンド》というのをこれはナオミ・グラハム夫人が十五志に値切り倒したが、これらの人は、競馬のときだけエプソム・ダウンのコウスに沿った何英町という土地《ラット》を細ぎりに借りて、当日じぶんの借地へ自動車がとまるのを待って一車一日いくらと徴収し、多くはそれで一年の生計を立てているのだ。したがってその人々は、毎年、とよりも、家によって代々世襲のわけで、ここらがはなはだ英吉利《イギリス》の、そしてダアビイらしい――なんかちょっと感心しながら、またがり[#「またがり」に傍点]にしろ、これでいぎりすへ来て土地まで借りているというので大いに意を強うし、あらためて傾斜から丘の頂上を眺めると、色と人と音の渦の中央にいるんだから、まるで曲馬団の舞輪《リング》へ抛《ほう》り出されたようで、あちこちに廻転木馬・輪投げ・動揺椅子・電気るうれっと・糸引き・人形撃ち・玉ころがしなどのゲイムの小屋が茸《きのこ》のようにすくすく[#「すくすく」に傍点]と建ってそれぞれに客をあつめ、楽隊と木笛と風船の音が世界を占め、それらに君臨して螺旋《らせん》すべりの塔が高く中空を抜いて、賭取人《ブック・メイカア》の色傘と黒板と嗄《しゃが》れ声とにきょうの日はさんさん[#「さんさん」に傍点]と降り――ジプシイの女がショウルをかけて、人波をわけている。多くは赤んぼ――ジプシイの――を抱いてい
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