ツん」に傍点]とモウニングの袖ぐちを引っぱって、売子の女に上官としての適度の威をしめして言った。
『この紳士へ旅行用衣裳掛けをお見せ申すように。』
 で、ついに私も、こんなに骨を折らせた旅行用衣裳掛けなる怪物を現実に――OH! じつに現実に!――私のこの掌《てのひら》のうえに捕獲する機会に到達し得たのだった。これは一に私が、印度《インド》人にまで「変装」してその難捜査に従事した結果であると私はいまだに信じている。
 買物で思い出したが、英吉利《イギリス》人はやたらに「Q!」という。Thank you だが、これがどうしても「キュウ!」としか聞えない。それも恐らく尻上りの「キュウ!」なんだから、はじめは誰でもちょっとびっくりさせられる。店へ這入る。すぐに番頭か女が近づいてきて、
『わたくしに出来ることがございますか――何をお眼にかけましょうか?』
 なんかという。こっちの店の制度は、たいがい売子がじぶんの売上高の何割かを貰うことになっているから、みんな一|片《ペンス》でも高いものをひとつでも余計に売りつけようというので一生懸命だ。これを知らずにいぎりすの店員は親切で熱心だなどと無闇《むやみ》に感心する人がよくあるが、たちまち自分のぽけっとへ影響して来るんだから、露骨に熱心にもなろうし、売らんがためには親切であることも必要なわけだ。が、このやり方は私はあまりいいとは思わない。それはなるほど店員の刺激にはなるだろうけれど、時として店の空気を不純にし、かつ多くの場合、客に自由に店内を見てまわる気をなくさせ、監視されているような感じを起させやすい。で、いや、なに、ただ漫然と見て歩いてるに過ぎないから放っといてくれ――こう店員に言ってやるんだが、すると彼らのすべてが、ぷいとそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いて「キュウ!」と楽器的な音響を発する。これも例の「|有難う《サン・キュウ》」なんだが、この場合は「ふん、お生憎《あいにく》さまでしたね!」ぐらいにしかこっちにはひびかない。その他あらゆる機会にあらゆる意味の「多謝《キュウ》」をふりまく。そして、あらゆる意味の言葉なるものは、ただちに無意味な発音として以外に存在し得ないわけだから、いぎりす人の「有難う」は要するに習慣によって機械的に出る無意味な発音に過ぎないということになる。
「|Q《キュウ》!」の用例を二、三|左《さ》に示せば
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