Bもっとも、あふがにすたん国王のおかげで七日間の不便と受難を余儀なくされたのは私たちばかりじゃない。おなじ車だけでも日本人が九人、独逸《ドイツ》人の男女が各ひとり、あめりかのお婆さん、チェッコ・スロベキヤの青年、支那の紳士――これだけがモスコウへ着くまで一致団結して外敵|露西亜《ロシア》人へ当ることに申し合わせる。何しろ、人も怖れる西比利亜《シベリア》の荒野を共産党の汽車で横断しようというのだから、その騒ぎたるや正《まさ》に福島少佐の騎馬旅行以上だ。ことに本邦人は、知るも知らぬもお低頭《じぎ》しあって、
『や! どちらまで?』
『伯林《ベルリン》まで参ります。あなたは?』
『ちょっと巴里《パリー》へ。いや、どうも――。』、
『いや、どうも。』
名刺が飛ぶ。
『こういう者でございます。どうぞ宜《よろ》しく。』
『は。わたくしこそ。』
なんかと、そこはお互いににっぽん[#「にっぽん」に傍点]人だ。こうなると黄色い顔がばかに頼母《たのも》しい。これだけ揃ってれば、なあに矢でも鉄砲でも持ってこいっ! さあ、やってくれ! というので、わあっ[#「わあっ」に傍点]! とばかりシベリアさして威勢よく押し出した――とまあ思いたまえ。
運命をともにする同車の日本人|諸彦《しょげん》――車室順。
A氏。日本橋の帽子問屋さん。汽車が走ってるあいだは花と将棋。停まるが早いか駅々から故国にほん[#「にほん」に傍点]へ懐しい便りを投ずる。口ぐせ「馬鹿にしてやがら、露助の汽車なんて。」
M氏。銀座の洋物店M屋の若旦那。Aさんと同伴で商売発展の準備にチェッコのプラアグへ行く途中。鞄《かばん》から色んなものが出る。山本山《やまもとやま》の玉露・栄太郎の甘納豆・藤村《ふじむら》の羊羹《ようかん》・玉木屋《たまきや》の佃煮《つくだに》・薬種一式・遊び道具各種。到れりつくせりだ。「お前、西洋へ行くなら盲唖学校へはいって、あのそれ手真似、あいつを覚えときゃよかった。あれなら、どこい行っても国際語だから、なあんて友達のやつひでえことを言いますよ。あははははは。」ところが御曹子。外国語がぺらぺらである。
O教授。K大学法学部の若い先生。しきりに沿線各駅で子供の絵本を買いあつめる。おせっかいなのが「坊ちゃんですか、お嬢さんですか。」教授、猛烈な近眼をぽかんとさせて「え? じょ、冗談じゃありません。まだひとりです。」道理で洋袴《ズボン》のお尻に穴があいている。
W選手。J新聞社世界早廻り競争の西まわり選手だ。大きな日の丸を胸へつけて、車内随一の元気である。莫斯科《モスコウ》から伯林《ベルリン》へ飛行機で飛ぶべく、毎日その返電を待っている。一同いっしょになってやきもき[#「やきもき」に傍点]しているが、まだ来ない。勝っても負けても、好漢Wはその独特のスポウティな微笑を忘れないだろう。
Y氏。K造船所の飛行機技師長。口角泡をとばして列強航空力の優劣を討議し、つねに正確に悲憤|慷慨《こうがい》におわる。独逸《ドイツ》へ行かれるのだそうだが、いろいろ専門の機微に入った使命があるらしい。一日、お願いして私と彼女に飛行機の講義をしていただく。絶えず葉巻を口にして「それあ着々|遣《や》ってますよ日本でも。えらいもんです。」
S氏。Y氏の同行者。停車中、雪の降る野天のプラットフォウムを外套なしで歩くのは、全乗客中このSさんだけだ。みな驚いている。
O先生。H高師教授。いつも彼女をつかまえて婦人問題を論ずる。その他の場合には忍耐ぶかい傾聴者。ベルリンへ。
ほかに亜米利加《アメリカ》のお婆さんは世界いたるところに散らばっている「あめりかのお婆さん」の型。独逸《ドイツ》の女は、見たところ宣教師らしい。チェッコの男は支那の靴を常用し、もうひとりいる独逸人はゴルフ洋袴《ズボン》に身を固め、支那人T博士は各国語をあやつり一車中の代弁をつとめる。それに私たち夫婦。
これから九人の日本人がおなじ車に陣取ってひょうびょう[#「ひょうびょう」に傍点]たる西比利亜《シベリア》を疾走するのだから、そのア・ラ・ミカドなこと宛然《さながら》移動日本倶楽部の観がある。めいめい社会への接触点を異にしているために、ふだんは滅多に顔があわず、会っても社交的儀礼に終始するであろう人々が、ここに各人生の一頁を持ち寄って心おきなくおたがいの生活と人間を呈示しあって行く。旅なればこそだが、こうして旅行中に逢っては離れる「人の顔」ほど断面的にそして端的に印象を色どるものはあるまい。それは私にとっては、忘れ得ない感傷の泡沫でさえありうるのだ。
さて、新刊|西比利亜《シベリア》旅行案内。
第一章、地理的概念。
満洲里《マンチュリー》――夜中のせいかいや[#「いや」に傍点]に真暗な町だなんにも見えない。思うにこれも夜中のせいだろう。それでも国境駅だけあって薄ぼんやりした電灯に非常に重大な気分が漂っている。税関検査。案ずるより生むがやすい。
マツェフスカヤ――町も私も眠っていた。
カリムスカヤ――オノン河の鉄橋。
チタ――人口八万。停車場と銀行と学校と博物館とホテルあり。臭い群集。
ウェルフネウジンスク――一度で言えたら豪《えら》い。セレンガ河の岸。ブリヤアト・モンゴウル・ソヴィエトの首府。東洋と西洋の奇妙なカクテルがぷんぷん香《にお》っている。
スリュジャンカ――小駅。バイカル湖風景車窓に展開し出す。
バイカル――四十六の隧道《とんねる》。水色美とハヒルスという魚を自慢にしている。アンガラ河。
イルクウツク――砂金。ヤクウツクとかへ行く道だそうだが、そんなことはどうでもいい。とにかく学校と銀行と市場と博物館とホテル。OH! それに劇場がある! やはり、皮くさい男と女と子供。
クラスノヤルスク――エニセイ河。豚の毛の集散地。人もかなり住んでる。
アウチンスク――白樺にかこまれた町。
タイガ――これも白樺にかこまれた町。
ノウォシビルスク――満洲里《マンチュリー》から五日目。オビ河。シベリア革命委員会。駅の売店で果物だけは買うべからず。オレンジ一個七十|哥《カペイカ》して、よほどの好運児のみが食べられるのに当る。
バルナウル――羊皮外套《バルナウルカ》。
セミパラチンスク――イルトゥイシ河沿岸。キルギス人多し。金に光る回々《フイフイ》教寺院の月章。砂ぶかい大通り。駱駝《らくだ》のむれ。三角の毛皮帽をかぶったキルギス族遊牧の民。カザクスタン共和国の、クリイム。
オムスク――むかしシベリア政庁のあったところ。車や家のこわれたのがあちこちに見える、革命のあとだ。空は秋の色をしている。
チュウメン――トウラ河。チュウメン絨毯。土、日ごとに黒くなり、人、日ごとに白くなり、このあたりよりようやく欧露に入る。
スウェルドロフスク――もとのエカテリンブルグだ。ニコライ二世はじめロマノフ一家が殺された町である。宝石アレキサンドリアを売っている。皇帝の泪《なみだ》が凝り固まっているようで、淋しい石だ。ウラルの風。
ペルミ――黒い低い街。
ヴィヤットカ――おなじく黒く低い街。白樺細工の巻煙草箱一|留《ルーブル》五十|哥《カペイカ》より。みんな買う。私も買う。
ブイ――またもや黒い低い街。
モスコウ――長い鉄路の果て。七日目に「|北の停車場《ヤロスラヴ・ワグザル》」へ着く。THANK・GOD!
第二章。シベリア鉄道旅行準備。
ソヴィエト・ビザ――旅券の裏書である。一週間領事館へ日参し、たくさんの写真とたくさんの金とを献上しなければならない。のみならず、何のために西比利亜《シベリア》を通過するか、宗教は―― if any 何を信ずるか、たべ物はなにが好きか、朝は大体何時に起きるか、習慣としてお茶をのむか飲まないか、もし喫《の》めば食前か食後か等々すべての個人的告白を強要される。この一〇〇一の試問と難関をぱす[#「ぱす」に傍点]した英雄にのみ西伯利亜《シベリア》経由の特権が附与されるのだ。
必要品――まず何よりもさきに勇気、決断、機敏、沈着。入国ならば持物に制限がある。男には帽子一個――一見して帽子の定義に適合する品にかぎる――下着三枚、つけ代えのぼたん五個、靴下留|巾《はば》一|吋《インチ》半以内のもの一つ、眼鏡――眼科医の診断書ならびに領事館の翻訳証明を要す――一個。女は、髪ピン十二本、靴下、絹二足、木綿三足、飲料に適せざる香水一本、着更え二つ、宝石――贋《にせ》とほんものとを問わず――三個。但し結婚指輪は唯一つを既婚婦人にのみ許す。その他男女共通に、眼、耳、手、足を各《おのおの》二つ、鼻、口を一個ずつ特に旅行中の便宜のために黙認している。しかし、これが単なる通過《トランジト》ならばよほど寛大だ。が、そのかわり忘れてならない物品を列挙すれば、第一に決死の覚悟と大国民の襟度《きんど》。つぎに、優《まさ》に十日間は支えるに足る食糧。すなわち、ありとあらゆる缶詰、野菜、ぱんの類、および台所道具一切。とは言え、瓦斯《ガス》ストウブは必要あるまい。天幕《テント》夜具等も汽車のうごく限りなくて済むだろう。ただモスコウまで何日、あるいは何十日かかるか、それはひとえに時の運とそうして汽車の感情《テンパラメント》によるのだから、復活祭《パスハ》に乗込んでXマスの前夜に着くかも知れない。のみならず食堂車というのも名ばかりで、兵隊みたいな給仕のほか、政府の規則によりあまり多くの食品は積まないことにしているし、これも政府の規則によりときどき勝手に列車を離れるし、同じく政府の規則で、莫斯科《モスコウ》に近づくにつれてだんだん皿とフォウクだけになってしまうし――とにかく欧羅巴《ヨーロッパ》へ行きつくまで何とかして露命をつなぎ、せめては餓死しない算段を上分別とする。身ごしらえ――喧嘩|乃至《ないし》は火事見舞の支度がいい。金銭――については両替、出入国、相場に関して流言|蜚語《ひご》真に区々まちまち、よろしく上手に立ちまわること肝要、とだけいっておこう。何せ相手は露西亜《ロシア》だ。朝と晩でもう法律が変っているんだから仕方がない。
第三章。車内「これだけは心得おくべし」。
停車時間を見るには時計よりも暦のほうが便利なこと。
そうかと思うと気まぐれに直《す》ぐ出るから、合図の鐘が鳴ったから逸早く駈け込むこと。
つねににこにこ[#「にこにこ」に傍点]して、殊に露西亜人のボーイには必要以上の好意を示すこと。
神仏どっちでもいいから、絶えず安着を祈ること。
知っていていい露西亜語。
こは何なりや――シト・エト・タコエ?
こはいずくの停車場なりや――カカヤ・エト・スタンツィオ?
ハム――ウェッチイナ。
バタ――マスロ。
幾金なりや――スコリコ?
自余は手まねと表情。悪口には母国語使用のこと。
以上、新刊しべりあ旅行案内終り。
念のための格言。
かんなん汝を玉にす。
湖・白樺・雪・雪・雪
車掌は白髪の老人だったが、何をいっても皆まで聞かずに否《ニヤット》の一言で片づけるのには大いに困った。そのうえアフガニスタン王のために四人乗りの車室しか取れなかったので、途中の駅から入り代り立ちかわり色んな人物が割り込んでくる。これにも弱らせられたが、このほうはどうやら片ことで会話をまじえて、すこしでも彼らの見方や考えているところに触れる機会を持ち、かえって感謝すべきだったかも知れない。はじめは私たちふたりでのうのう[#「のうのう」に傍点]していたのだったが、満洲里《マンチュリー》を出て間もなく、たぶんマツェフスカヤからだったと思うが、真夜中の二時ごろ、臭気ふんぷんたる二人の露西亜《ロシア》兵士が押しこんで来て、長靴をはいた土足のまんま寝台へ這いあがられたのはびっくりした。彼女などはびくびく[#「びくびく」に傍点]もので一晩じゅうまんじりともしなかった。あとで聞くと、このふたりは初め隣室の女ばかりの部屋へ這入《はい》ろうとしたのだそうだ。もちろん女達が悲鳴を揚げて抵抗したので、私たちの部屋へ来
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