スものらしい。気はよさそうだが、なにぶん無智で不潔で鼻もちがならない。が、この連中はまだいい。一つ置いてむこうの車室は韃靼《だったん》人の一行が占領している。兎のような赤い眼をした六尺あまりのおやじとその家族である。みんな円い赤ぐろい顔をして、女は頭髪《かみ》にへん[#「へん」に傍点]な棒をさし、大きな金いろの耳輪を鳴らし、石ころをつないだような頸飾《くびかざ》りをしていた。着物は男女共用らしく、どっちも皮と木綿とけばけば[#「けばけば」に傍点]しい色彩とから出来ている。しじゅう眼を見張って私たち、ことに彼女を研究していた。ウェルフネウジンスクでぞろぞろ降りて行く。
 私たちの車室の顔もしじゅう変る。つぎに乗りこんで来たのは村のお医者と鉄道技師、それから今度は将校がふたり、一人は「サヨナラ」「コニチワ」「トキョウ」の三日本語を解し、さかんに振りまわす。うるさい。ペトロフ・イワン・イワノウィチ――偽名にきまってる――と名乗り、国家的秘密機関ゲイ・ペイ・ウの一員だといってジェルジンスキイの肖像のはいった勲章を帯びていた。ブウルジョワと叫んで右手を低く下げ、プロレテリヤと歓呼して左手を高くあげる。そればかり繰り返していた。かと思うと、トキョウ・ブウルジョワとつづけて顔をしかめ、ラシヤ・プロレテリヤと言ってにこにこ[#「にこにこ」に傍点]するのもある。莫斯科《モスコウ》まで同車したのは二十一、二の若い共産党員だった。オムスクの会議に列席した帰りだという。明けても暮れても新聞ばかり読んでいた。トロツキイの失脚なんかについていろいろ話してくれたようだが、何しろ手まね足真似ばかりなのでよくわからない。しゃべっているうちに自分で昂奮して赤くなるほどの美少年だった。彼女の買った白樺の小箱のうらへ露語で何か書いてくれる。モスコウのアドレスも貰ったが、とうとう訪問する機会がなかった。
 食堂にはオムレツのほか空気がある。停車駅で老婆や娘の売っている鶏は油がわるくてむっ[#「むっ」に傍点]とする。単調とあんにゅいの一週間を救うには、車外に進展する沿道の風物以外何ものもないのだ。
 哈爾賓《ハルビン》を夜出た明け方、さわやかな朝日を浴びて悠歩する駱駝とブリヤアト人の小屋を見た。博克図《はくこくず》から有名な興安嶺《こうあんれい》にかかり、土と植物が漸時系統を異にしつつあるのを感じる。それからはただ夕陽と白樺《ビリオザ》と残雪の世界である。丸太小屋に撥《は》ねつるべの井戸、杉《サスナ》も多い。クルツクンナアヤの停車場に、労農政府の政策を絵解きにした宣伝びら[#「びら」に傍点]がかかっていたのを、後部の車にいるレニングラアド大学教授リュウ・ツシゴウル氏が説明してくれる。カマラの駅には汽車と乗客を見物する土民が異様な服装で群れさわいでいた。カリイスカヤのゴブノビンスクだの、へんな名の村々町々を通過する。汽車はときどき立ちどまって、水と燃料の薪を積みこみ、そうして思い出したようにまた遠い残光をさして揺《ゆる》ぎ出すのだ。ある朝「バイカル!」の声にあわてて窓かけを排すると、浪を打ったまま氷結したバイカルが、敷布のように白く陽にかがやいて私たちのまえにあった。それは湖というよりも海だった。ところどころに魚を釣る穴があいて、橇《そり》のあとが無数に光っている。バイカルは一日汽車の窓にあった。タタルスカヤで粉雪ふる。派手な頭巾をかぶった頬の赤い姉妹が手を引いて汽車を見送っていた。ポクレブスカヤから土がめっきり黒くなって、欧羅巴《ヨーロッパ》の近いのを知る。スウェルドロフスクでは、廃帝ニコライが聞いたであろう寺院の鐘をきいた。夕やけで停車場も家の屋根も人の顔も真赤だった。ヴィヤトカでまた雪。莫斯科《モスコウ》へ着く朝、スポウリエの寒駅で、はじめて常盤樹《ときわぎ》でない緑の色を見る。
 野と丘と白樺の林と斑雪《まだらゆき》の長尺フィルムだった。
 家。炊事のけむり。白樺。そこここに人。
 吸口のながい巻煙草――十四|哥《カペイカ》。
 白樺・白樺・白樺。
 夕陽が汽車を追って走る。

   赤い日記

 疲弊。無智。不潔。不備。文盲。陽気。善良。貧乏。狡猾。野心。術数。議論。思潮。芸術。音楽。政策。叡智。隠謀。創業。経営。
 これらの抽象名詞――露西亜《ロシア》人は国民性としてあらゆる抽象名詞を愛する――が、ごく少量の国際的反省のもとにこんとん[#「こんとん」に傍点]として沸騰している町、モスコウはいま何かを生み出そうとして、全人類史上の一大試練《エクスペリメント》に耐えようとしているのだ。だからシベリアの汽車で会ったと同じ「若い性格」の兵士と労働者と学生をもって充満し、まずしい現実のうえにうつくしい理論が輝き、すべての矛盾は赤色の宣伝びらで貼り隠され、「われらは無産者
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