C――またもや黒い低い街。
 モスコウ――長い鉄路の果て。七日目に「|北の停車場《ヤロスラヴ・ワグザル》」へ着く。THANK・GOD!
 第二章。シベリア鉄道旅行準備。
 ソヴィエト・ビザ――旅券の裏書である。一週間領事館へ日参し、たくさんの写真とたくさんの金とを献上しなければならない。のみならず、何のために西比利亜《シベリア》を通過するか、宗教は―― if any 何を信ずるか、たべ物はなにが好きか、朝は大体何時に起きるか、習慣としてお茶をのむか飲まないか、もし喫《の》めば食前か食後か等々すべての個人的告白を強要される。この一〇〇一の試問と難関をぱす[#「ぱす」に傍点]した英雄にのみ西伯利亜《シベリア》経由の特権が附与されるのだ。
 必要品――まず何よりもさきに勇気、決断、機敏、沈着。入国ならば持物に制限がある。男には帽子一個――一見して帽子の定義に適合する品にかぎる――下着三枚、つけ代えのぼたん五個、靴下留|巾《はば》一|吋《インチ》半以内のもの一つ、眼鏡――眼科医の診断書ならびに領事館の翻訳証明を要す――一個。女は、髪ピン十二本、靴下、絹二足、木綿三足、飲料に適せざる香水一本、着更え二つ、宝石――贋《にせ》とほんものとを問わず――三個。但し結婚指輪は唯一つを既婚婦人にのみ許す。その他男女共通に、眼、耳、手、足を各《おのおの》二つ、鼻、口を一個ずつ特に旅行中の便宜のために黙認している。しかし、これが単なる通過《トランジト》ならばよほど寛大だ。が、そのかわり忘れてならない物品を列挙すれば、第一に決死の覚悟と大国民の襟度《きんど》。つぎに、優《まさ》に十日間は支えるに足る食糧。すなわち、ありとあらゆる缶詰、野菜、ぱんの類、および台所道具一切。とは言え、瓦斯《ガス》ストウブは必要あるまい。天幕《テント》夜具等も汽車のうごく限りなくて済むだろう。ただモスコウまで何日、あるいは何十日かかるか、それはひとえに時の運とそうして汽車の感情《テンパラメント》によるのだから、復活祭《パスハ》に乗込んでXマスの前夜に着くかも知れない。のみならず食堂車というのも名ばかりで、兵隊みたいな給仕のほか、政府の規則によりあまり多くの食品は積まないことにしているし、これも政府の規則によりときどき勝手に列車を離れるし、同じく政府の規則で、莫斯科《モスコウ》に近づくにつれてだんだん皿とフォウクだけになってしまうし――とにかく欧羅巴《ヨーロッパ》へ行きつくまで何とかして露命をつなぎ、せめては餓死しない算段を上分別とする。身ごしらえ――喧嘩|乃至《ないし》は火事見舞の支度がいい。金銭――については両替、出入国、相場に関して流言|蜚語《ひご》真に区々まちまち、よろしく上手に立ちまわること肝要、とだけいっておこう。何せ相手は露西亜《ロシア》だ。朝と晩でもう法律が変っているんだから仕方がない。
 第三章。車内「これだけは心得おくべし」。
 停車時間を見るには時計よりも暦のほうが便利なこと。
 そうかと思うと気まぐれに直《す》ぐ出るから、合図の鐘が鳴ったから逸早く駈け込むこと。
 つねににこにこ[#「にこにこ」に傍点]して、殊に露西亜人のボーイには必要以上の好意を示すこと。
 神仏どっちでもいいから、絶えず安着を祈ること。
 知っていていい露西亜語。
 こは何なりや――シト・エト・タコエ?
 こはいずくの停車場なりや――カカヤ・エト・スタンツィオ?
 ハム――ウェッチイナ。
 バタ――マスロ。
 幾金なりや――スコリコ?
 自余は手まねと表情。悪口には母国語使用のこと。
 以上、新刊しべりあ旅行案内終り。
 念のための格言。
 かんなん汝を玉にす。

   湖・白樺・雪・雪・雪

 車掌は白髪の老人だったが、何をいっても皆まで聞かずに否《ニヤット》の一言で片づけるのには大いに困った。そのうえアフガニスタン王のために四人乗りの車室しか取れなかったので、途中の駅から入り代り立ちかわり色んな人物が割り込んでくる。これにも弱らせられたが、このほうはどうやら片ことで会話をまじえて、すこしでも彼らの見方や考えているところに触れる機会を持ち、かえって感謝すべきだったかも知れない。はじめは私たちふたりでのうのう[#「のうのう」に傍点]していたのだったが、満洲里《マンチュリー》を出て間もなく、たぶんマツェフスカヤからだったと思うが、真夜中の二時ごろ、臭気ふんぷんたる二人の露西亜《ロシア》兵士が押しこんで来て、長靴をはいた土足のまんま寝台へ這いあがられたのはびっくりした。彼女などはびくびく[#「びくびく」に傍点]もので一晩じゅうまんじりともしなかった。あとで聞くと、このふたりは初め隣室の女ばかりの部屋へ這入《はい》ろうとしたのだそうだ。もちろん女達が悲鳴を揚げて抵抗したので、私たちの部屋へ来
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