ヘただ夕陽と白樺《ビリオザ》と残雪の世界である。丸太小屋に撥《は》ねつるべの井戸、杉《サスナ》も多い。クルツクンナアヤの停車場に、労農政府の政策を絵解きにした宣伝びら[#「びら」に傍点]がかかっていたのを、後部の車にいるレニングラアド大学教授リュウ・ツシゴウル氏が説明してくれる。カマラの駅には汽車と乗客を見物する土民が異様な服装で群れさわいでいた。カリイスカヤのゴブノビンスクだの、へんな名の村々町々を通過する。汽車はときどき立ちどまって、水と燃料の薪を積みこみ、そうして思い出したようにまた遠い残光をさして揺《ゆる》ぎ出すのだ。ある朝「バイカル!」の声にあわてて窓かけを排すると、浪を打ったまま氷結したバイカルが、敷布のように白く陽にかがやいて私たちのまえにあった。それは湖というよりも海だった。ところどころに魚を釣る穴があいて、橇《そり》のあとが無数に光っている。バイカルは一日汽車の窓にあった。タタルスカヤで粉雪ふる。派手な頭巾をかぶった頬の赤い姉妹が手を引いて汽車を見送っていた。ポクレブスカヤから土がめっきり黒くなって、欧羅巴《ヨーロッパ》の近いのを知る。スウェルドロフスクでは、廃帝ニコライが聞いたであろう寺院の鐘をきいた。夕やけで停車場も家の屋根も人の顔も真赤だった。ヴィヤトカでまた雪。莫斯科《モスコウ》へ着く朝、スポウリエの寒駅で、はじめて常盤樹《ときわぎ》でない緑の色を見る。
 野と丘と白樺の林と斑雪《まだらゆき》の長尺フィルムだった。
 家。炊事のけむり。白樺。そこここに人。
 吸口のながい巻煙草――十四|哥《カペイカ》。
 白樺・白樺・白樺。
 夕陽が汽車を追って走る。

   赤い日記

 疲弊。無智。不潔。不備。文盲。陽気。善良。貧乏。狡猾。野心。術数。議論。思潮。芸術。音楽。政策。叡智。隠謀。創業。経営。
 これらの抽象名詞――露西亜《ロシア》人は国民性としてあらゆる抽象名詞を愛する――が、ごく少量の国際的反省のもとにこんとん[#「こんとん」に傍点]として沸騰している町、モスコウはいま何かを生み出そうとして、全人類史上の一大試練《エクスペリメント》に耐えようとしているのだ。だからシベリアの汽車で会ったと同じ「若い性格」の兵士と労働者と学生をもって充満し、まずしい現実のうえにうつくしい理論が輝き、すべての矛盾は赤色の宣伝びらで貼り隠され、「われらは無産者
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