ミとりです。」道理で洋袴《ズボン》のお尻に穴があいている。
W選手。J新聞社世界早廻り競争の西まわり選手だ。大きな日の丸を胸へつけて、車内随一の元気である。莫斯科《モスコウ》から伯林《ベルリン》へ飛行機で飛ぶべく、毎日その返電を待っている。一同いっしょになってやきもき[#「やきもき」に傍点]しているが、まだ来ない。勝っても負けても、好漢Wはその独特のスポウティな微笑を忘れないだろう。
Y氏。K造船所の飛行機技師長。口角泡をとばして列強航空力の優劣を討議し、つねに正確に悲憤|慷慨《こうがい》におわる。独逸《ドイツ》へ行かれるのだそうだが、いろいろ専門の機微に入った使命があるらしい。一日、お願いして私と彼女に飛行機の講義をしていただく。絶えず葉巻を口にして「それあ着々|遣《や》ってますよ日本でも。えらいもんです。」
S氏。Y氏の同行者。停車中、雪の降る野天のプラットフォウムを外套なしで歩くのは、全乗客中このSさんだけだ。みな驚いている。
O先生。H高師教授。いつも彼女をつかまえて婦人問題を論ずる。その他の場合には忍耐ぶかい傾聴者。ベルリンへ。
ほかに亜米利加《アメリカ》のお婆さんは世界いたるところに散らばっている「あめりかのお婆さん」の型。独逸《ドイツ》の女は、見たところ宣教師らしい。チェッコの男は支那の靴を常用し、もうひとりいる独逸人はゴルフ洋袴《ズボン》に身を固め、支那人T博士は各国語をあやつり一車中の代弁をつとめる。それに私たち夫婦。
これから九人の日本人がおなじ車に陣取ってひょうびょう[#「ひょうびょう」に傍点]たる西比利亜《シベリア》を疾走するのだから、そのア・ラ・ミカドなこと宛然《さながら》移動日本倶楽部の観がある。めいめい社会への接触点を異にしているために、ふだんは滅多に顔があわず、会っても社交的儀礼に終始するであろう人々が、ここに各人生の一頁を持ち寄って心おきなくおたがいの生活と人間を呈示しあって行く。旅なればこそだが、こうして旅行中に逢っては離れる「人の顔」ほど断面的にそして端的に印象を色どるものはあるまい。それは私にとっては、忘れ得ない感傷の泡沫でさえありうるのだ。
さて、新刊|西比利亜《シベリア》旅行案内。
第一章、地理的概念。
満洲里《マンチュリー》――夜中のせいかいや[#「いや」に傍点]に真暗な町だなんにも見えない。思うにこれ
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