體s会だから。
泣き顔に塗った白粉《おしろい》。死んだ伯父が愛用した古いふるい動かない銀時計。そんな言葉がよく当てはまるほど、私はハルビンを地球上にユニイクな市街だと思う。その光りと影、その廃頽《はいたい》と暗示、私は哈爾賓の持つ蕪雑《ぶざつ》な詩趣を愛する。
そこでは、この夜更けにも夕ぐれの色とにおいが隈《くま》なく往きわたって、いまこうしてキタイスカヤ街をまがろうとしている私と彼女に、眼のまえの「飯店《めしや》」の裏口に貼った紙がはっきりと読めるのだ。
[#ここから2字下げ]
閑人免進悪狗咬人《かんじんすすむなかれあくいぬひとをかむ》
君子自重面欄莫怪《くんしじちょうめんらんあやしむなかれ》
[#ここで字下げ終わり]
はじめの一行は「無用の者入るべからず」。
あとの君子自重は、其角《きかく》の「このところ小便無用花の山」に似て、後者の風流を狙って俗なるに比し、ずっと道学的に洒脱である。私が感心して立ちどまっていると、文字どおりに悪狗《あくいぬ》らしいのが、これもたそがれ[#「たそがれ」に傍点]のかげを引いて長く吠《ほ》えた。
日露戦争の癈兵《はいへい》らしい老人がふたり、ひとりは手風琴を、他はヴァイオリンを鳴らして路傍に物乞いしている。跛足と盲らだ。「無眼之人」と大きく書いたボウル紙を首から下げていた。
ウチャストコワヤ街の方角から、深夜の紅塵にまじって支那少年の叫びがけたたましく流れてくる。
[#ここから2字下げ]
ちで・ちで!
[#ここで字下げ終わり]
夕刊売りだ。
[#ここから2字下げ]
ちで――い!
ちで――い!
[#ここで字下げ終わり]
VIA・さいべりあ
アフガニスタンという国――とにかく国だろうと思うんだが――の王様が、何かの用で――たぶん鬚でも剃《そ》りに――莫斯科《モスコウ》からワルソウのほうへ出かけているために、その宮内大臣、侍従、料理部員等の一大混成旅行団の乗用として、いい車はみんな欧露方面へとられてしまった。万国寝台会社がこういう。どうもへんな話だが、アフガニスタンにしろズズアイランドにしろ、仮にも王さまの御用とあらば致し方ない。で、不平たらたら汽車賃の払戻しを受けて、一等客が全部二等車へ押しこめられ、いよいよ[#「いよいよ」に傍点]長途シベリアの旅へ上る。このいよいよこそはじつに世にも大変な「いよいよ」であった
前へ
次へ
全32ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング