ヌには代書屋に人が群れさわぎ、地下室の窓からは真白い女の顔が覗き、秋林《チュウリン》ウォルガバイガルなどの百貨店に日本の商品が散見し、喫茶店の卓子《テーブル》では松花江《スンガリイ》の氷の解けたうわさがはずみ、アントニオ・モレノ主演「侠勇男子」の絵看板と跳舞大会のびらとがホテル近代《モデルン》の入口を色どり、しつこい乞食の児《こ》に夕方の風が吹き、いっぱいの曹達水《ソデリヤ・ワダ》に日露支全極東の味がこもり、肥った淫売婦がいま掴《つか》まえた男の肘《ひじ》をとって口笛を鳴らし、その口笛に応じて十七台の小馬車が勇ましく先を争い、新めいせん日本服のハルビンお何が向う側の露西亜《ロシア》学生に秋波を送り、暗い入口に人のささやきがうごめき、お洒落《しゃれ》な旅行者の捨てた煙草に六本の手が伸び、同じ男と女に何度も会い、めりんす二〇三高地の輸出向日本芸者がしゃなり[#「しゃなり」に傍点]と自動車から左褄《ひだりづま》を取り、露西亜人のよっぱらいが支那の巡警に管をまき、それらのうえにぼやけた灯《あか》りと北満の夜霧がひろがり、この貧しい都市にも、まずしいなりに|感じと動きと流露《フィリング・ムウヴィング・パッション》とを追う散歩者の行進曲が奏でられているのを知る。が、スピイドのない享楽の狩猟、PEPを欠く狂噪、CHICの見られない街路進歩《プロムナアド》、何という神さまに忘れられた砂漠がハルビンであろう!
いま哈爾賓《ハルビン》の市中をあめりか人らしい夫婦が自動車を乗りまわして、いたるところで車上から銀貨銅貨を現実に撒き散らして歩いている。何かの功徳かそれとも単なるものずきかも知れないが、「|見知らぬ紳士《ニエイズベストヌイ・ゴスポジン》」として新聞も騒ぎ、みんなそのはなしで持ちきりだ。不幸にして私たちは問題の自動車を見かけなかったけれど、見知らぬ紳士のこころもちはよくわかるように思えてならない。誰だってこのみすぼらしい市民が努力して生活を楽しもうと心がけている窮状を見ては、あり余るものならば財布を空《から》にばら[#「ばら」に傍点]まきたい衝動に襲われるであろう。とにかく、こんな中世紀的な物語も物語でなく実在し得るのがハルビンだ。なぜなら、それはつねに振り返っている町だから。そして同時に、絶えず爪立ちして何か――何であるかは哈爾賓《ハルビン》じしんも知らない――を待ち望んでい
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