ないの? 可愛がって上げるわ。いらっしゃいよ。あたしの部屋へさ。廊下の突き当りよ。
劉東夏 いけないよ、そんなところから顔を出しちゃあ。叱られるぞ。
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禹徳淳が寝台に起き上る。女はあわててドアを閉めて去る。
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禹徳淳 また淫売かい。
劉東夏 (笑って)ええ、あいつとてもうるさいんです。
禹徳淳 何時だい。
劉東夏 さあ――今三時打ったようですよ。
禹徳淳 かわろうか。
劉東夏 いいんです。もう少ししたら――。
禹徳淳 起したまえ。かわるから。
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禹徳淳が再び寝台に横になると同時に、弾かれたように安重根が起き上る。
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安重根 ひどい汗だ。(腋の下へ手をやって)こんなに寝汗をかいている。
禹徳淳 (ベッドから)よく眠っていたよ。君は朝までぐっすり眠らなくちゃあ。僕と劉君が代り番こに起きているから大丈夫だ。
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安重根もふたたび枕に就き、劉東夏は戸口の椅子で居眠りを続け、しんとなる。長い間。
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安重根 (独り言のように、突然)徳淳、君は黄海道のほうはあんまり知らないようだねえ。(間。禹徳淳は答えない)僕のおやじは安泰勲と言って、黄海道海州の生れさ。科挙に及第して進士なんだ。(長い間。次第に述懐的に)そうだ、僕の家に塾があってねえ、あのポグラニチナヤの趙康英や、ハルビンの金成白、それに僕の弟の安定根と安恭根など、みんな一緒に漢文を習ったものさ。童蒙先習、通鑑、それから四書か。はっはっは、勉強したよ。(間)その後僕は、信川で、天主教の坊さんで洪神文と言ったフランス人に就いてフランス語を教わったこともある。僕の家はみんな天主教だが、僕が洗礼を受けたのはたしか十七の春だった。うむ、洪神文というんだ。君は識らないかなあ。
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禹徳淳は空寝入りをして鼾をかいている。長い間がつづく。
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安重根 おやじの安泰勲が倹約家《しまつや》で、少しばかり不動産があってねえ、鎮南浦に残して来た僕の家族は、それで居食いしているわけだが、それも、今では二三百石のものだろう。故里《くに》を出たきり補助するどころではないから、さぞ困っているだろうと思うよ。
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叩戸《ノック》といっしょにドアを蹴り開けて、蔡家溝駅駐在セミン軍曹と部下四五人が、支那人ボウイを案内に荒々しく踏み込んで来る。
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軍曹 (大喝)起きろ! 検査だ!
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安重根と禹徳淳は起き上る。劉東夏は椅子を離れて直立する。兵卒たちは早くも室内を歩き廻って、衣類や手廻品に触れてみている。
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安重根 何だ。夜中に他人《ひと》の部屋へどなり込んで来るやつがあるか。何の検査だ。
軍曹 (大声に)何だと? 生意気言うな。何の検査でもよいっ! 日本の高官が当駅《ここ》を御通過になるので失礼のないように固めているんだ。(安重根へ進んで)貴様は何者か。
禹徳淳 (急いで寝台を下りて)済みません。わたくしどもは飴屋でございます。こいつは宵の口に一杯|呑《や》って酔っておりますんで、とんだ失礼を申し上げました。(懸命に安重根へ眼配せする)
軍曹 飴屋か。道具はどこにある、道具は。
禹徳淳 はい。道具は、預けてございます。
軍曹 どこに預けてあるのか。
禹徳淳 この町の親方のところに預けてございます。
軍曹 たしかにそうだな。嘘をつくと承知せんぞ。儲かるか。
禹徳淳 へ?
軍曹 飴屋は儲かるかと訊いているんだ。
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軍曹は安重根を白眼みつけて、部下を纏めてさっさと出て行く。支那人のボウイが、その背ろ姿に顔をしかめながら扉《ドア》を閉めて続く。
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禹徳淳 笑わせやがらあ。あんでえ! 威張りくさりやがって。まるで日本人みてえな野郎だ。(劉東夏へ)驚いたろう。
安重根 (寝台に腰掛けて)僕は徳淳が羨しいよ。明日にも、世界中がびっくりするようなことをやろうというのに、とっさに上手に飴屋に成り済ましたりなんか――神経が太いぞ。
禹徳淳 (勢いよく寝台に滑り込んで、大声に)そうだ! いよいよおれたちがやっつけたとなると、騒ぎになるぜ。××戦争の戦端を切るんだ。愉快だなあ!
安重根 ××戦争? 不思議なことを言うねえ。誰が戦争をするんだ。
禹徳淳 何を言ってるんだ。おれたちが敢然と起ったのを見て、鶏林八道から露領、満洲にかけての同志が安閑としていると思うか。大戦争だよ。これは、大戦争になる。
安重根 (哄笑)笑わせないでくれ。だから僕は、君が羨しいと言うんだ。
禹徳淳 (むっくり起き上って)何? じゃあ、安君、君は、同志が僕らを見殺しにするとでも考えているのか。
安重根 (話題を外らすように、劉東夏へ)十二時ごろに汽車の音がしたねえ。夢心地に聞いていた。
禹徳淳 (激しく)安君! 君は同志を信じないのか。
劉東夏 (戸口の椅子から)あれは貨物です。
安重根 汽車はあれきり通らないようだねえ。(禹徳淳へ笑って)三夾河まで行った方がよかったかな。
禹徳淳 しかし、蔡家溝は小さな駅だが、列車の行き違うところで、停車時間が長いというから降りたんじゃないか。
安重根 (劉東夏へ)列車往復の回数はわかっていますね。
禹徳淳 (吐き出すように)もちろんここは大事を決行するに便利なところじゃないよ。見慣れぬ人間がうろついていると、眼についてしょうがない。三人なんか張り込んでいる必要はないんだ。
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先刻の支那人ボウイを従えて駅長オグネフがはいって来る。
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駅長 (にこにこして)ちょっと調べさせて頂きます。
禹徳淳 (俯向けに寝台に寝転がる)またか――うんざりするなあ。
駅長 (劉東夏を見て)あなたはなぜそんなところに掛けているんですか。
劉東夏 ベッドが二つしかないもんですから――。
駅長 なるほど。(禹徳淳へ微笑)このホテルは駅に接続しております関係上、私の管轄になっておりますんで、御迷惑でしょうが、お答え願います。
禹徳淳 はいはい、(元気よく起き上って肘を張る)答えますとも! さあ、何でも訊いて下さい。
駅長 なに、ほんの形式ですよ。
安重根 先刻も軍隊のほうから審《しら》べが来ました。うるさくて寝られやしません。いったいどうしたというんです。
駅長 (とぼけて)さあ、何ですか、私どもは上司の命令で動いているだけですから――(禹徳淳へ)三人御一緒ですか。
禹徳淳 はい。そうです。
駅長 どちらからおいででした。
禹徳淳 旅の飴屋なんです。ハルビンから来ました。
駅長 これからどちらへ?
禹徳淳 明朝三夾河、寛城子の方へ発《た》つつもりです。
駅長 ありがとう。お邪魔しました。
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駅長去る。支那人ボウイは顔をしかめて随《つ》いて行く。駅長はただちにドアの真向うの部屋へはいって、同じことを言っているのが聞こえて来る。間。
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禹徳淳 (安重根を凝視した後)君はどう考えているか知らんが、僕らは決して個人の挌で(低声に)伊藤を殺《や》っつけるんじゃあないんだ。人数こそ尠いが、この行為は戦争だよ。立派な××戦争だよ。君は義兵の参謀中将として指揮をし、僕はその義軍に参加しているのだ。事成れば、戦時の捕虜として潔く縛《ばく》に就く覚悟でいる。
安重根 (続けさまに巻煙草を吹かして歩き廻りながら、苦笑)解った、わかった! 僕も今さらこんなことを言いたくはないが、本国では、外部も工部も法部も、いや、通信機関まですべて日本の経営なんだぜ。いまわかったことじゃないが、考えてみると、これじゃとても大仕掛けに事を挙げるなんて思いも寄らない。例えば、ここで僕らが何かやったって、果して僕らの目的、僕らの意思が、大衆に徹底するかどうか――。
禹徳淳 (顔色を変える)おいおい、今になって君は何を言い出すんだ――。
安重根 (冷笑して)また徳淳のお株が始まるぞ。そのつぎは、(大言壮語の口調で)「われにしてもし武力あらば、軍艦に大砲を積んで朝鮮海峡へ乗り出し、伊藤公の乗って来る船を撃ち沈める」――という、いつもの、そら、十八番《おはこ》が出るんだろう。
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禹徳淳がむっとして何か言わんとする時、室外《そと》の廊下に「嫌ですよう、引っ張っちゃあ! 行きますよ。行ったら文句はないんでしょう。」と叫ぶ肝高い女の声、「来いっ! 貴様も一緒に来るんだ!」などと男の怒声、続いてけたたましい女の泣き声と、多人数の走り廻る音がして、突然ドアが開き、寝巻姿のロシア人の売春婦三人と、客の朝鮮人支那人の男たちが逃げ込んで来る。劉東夏と禹徳淳は呆然と見守っている。安重根は寝台の下から行李を引き出して、茶色のルバシカ、同じ色の背広、円い運動帽子、大きな羊皮外套等、ウラジオで調えた衣類を取り出し、片隅で静かに着がえにかかっている。が、誰も気がつかない。
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女一 (禹徳淳へ低声に)ちょっと此室《ここ》を貸して下さいね。
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侵入者一同は部屋の三人に頓着なくささやき続ける。
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男一 いや、あわてた、あわてた。眼も当てられやしない。
女二 サアシャさんはやられたらしいわね。
男二 ざまったらないよ。今夜にかぎってばかに脅かしやがる。
女三 えらい人が汽車で通るからって、家の中で何をしようとかまわないじゃないのねえ。
男三 憲兵のやつ何か感違いしてるらしいんだ。とんだ災難だよ。
女一 (耳を澄まして)しっ!
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口に指を当てる。ドアが細く開いてホテルの主人ヤアフネンコの禿頭が現れる。
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女一 あら、ヤアフネンコのお父つぁん、もう大丈夫?
ヤアフネンコ やれやれ、一組挙げて帰ったらしいよ。そっと部屋へ帰んな。静かに――いいか、静かにな。
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女たちは銘めいの男を伴って音を忍ばせて出て行く。
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ヤアフネンコ (ドアから顔だけ入れて)お騒がせしましたな。はい、お休みなさい。
禹徳淳 (安重根が着がえしたのに気づいて愕く)なんだい、今からそんな物を着込んで。(駈け寄る)どこへ行くんだ?
安重根 (着がえを済まして)おれは嫌だよ。(戸口へ進む)ハルビンへ帰るんだ。
禹徳淳 (血相を変えて追い停めようとする)安重根! 君――なにを馬鹿な!
安重根 何をするんだ! (振り払う)
禹徳淳 (激昂して)貴様、貴様――変節したな。裏切るつもりか。
安重根 (ドアの前で振り返って、静かに)変節も裏切りもしない。おれはただ、もう伊藤を殺してしまったような気がするだけだ。
禹徳淳 (呆然と佇立していたが、気がついたように戸口《ドア》へよろめいて立ち塞がる)それは何のことだ。
安重根 (冷然と)伊藤を殺してしまったような気がして、淋しくて仕様がないんだ。僕はハルビンへ帰るよ。
禹徳淳 ようし! (怒りに顫えて掴みかかろうとし、どなる)卑怯者! 卑怯だ。こいつ――!
安重根 (禹徳淳の手を抑えて一語ずつ力強く)徳淳! いいか、伊藤は、おれの伊藤だぞ。おれだけの伊藤だぞ。殺《や》るならおれ自身やらなくちゃならない必要があってやるんだ。が――。
禹徳淳 (じっと睨んで)詭弁を弄すな、詭弁を。

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