恰好ではないからね。
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群集はかすかに興味を示して、薬売りの周囲へ集まって行く。安重根は手持ち不沙汰に立っている。
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薬売り なに、蛇なんざあ珍しくねえ? そこらの藪っぺたを突っつけばいくらでも飛び出す? だだ誰だ、そんなこと言うのは――ちぇっ! そりゃあ夏の蛇だ。夏の蛇ですよ。そんな蛇とは蛇が違う。ねえ、夏の蛇は薬にはならないよ。私がこう言ったら、そんならお前の蛇は何かの薬になるのかと訊いた人がある。なあ、これから九月、十月、十一月もなかばになると、満洲の冬は早いです。名物の空っ風が、ぴゅうっ、ぴゅうっ、ねえ、朝起きてみると、白いものが地面に下りて、霜だ。おお寒い寒い! 皆さん手に息を吹っかけて、家ん中へはいってオンドルの上に縮《ちぢ》こまる。へへん、笑いごっちゃあねえ。蛇だって寒いから、穴籠《あなごも》りだ。山の奥へと持って行って穴を掘って、蛇の先生、飲まず食わずでじいっ[#「じいっ」に傍点]――冬眠してやがる。ね、そこを、私らみてえな蛇屋さんが、へん、商売商売だね、竹の棒で起こして廻るんだが、どっこい、どの山の蛇でもいいかと言うと、そうではない。これから北へ行って金崔浩《きんさいこう》さんの所有山《もちやま》、南では車錫山、まず大した蛇山だねえ。蛇追いと言って、これから蛇を追い出して油を取る。御存じの支那の竜門から産《で》ると言われていた視力若返りの霊剤、あれなんかもじつはこの満洲蛇の油だということが、最近偉い博士先生方の御研究によって判明をいたしました。何にきくかと言うと――眼の悪い人はいないかね? 眼の悪い人は前へ出なさい。老眼、近眼、あるいは乱視といって物がいくつにも見える。捨てて置いてはいけない。それから脳病一般、リュウマチス、それに喘息《ぜんそく》だ。この喘息という病は、今日の医学界ではまだその病源についていろいろと説があって、したがって治療法も発見されておりません。学者先生が多勢お集まりになって、腕を拱《く》んで首を捻っていなさる。はて、わからねえ――。
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薬売りは腕を組んで、首を捻って考え込む態をする。群集はすっかり安重根に背中を向けて、薬売りを取りまいて熱心に聴き入っている。低い塀の上にも、中から覗いている顔がいくつも並んでいる。安重根は憮然として群集を凝視めている。
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2
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同年十月十七日、午前十時ごろ。
ウラジオストック、朝鮮人街、鶏林理髪店の土間。罅のはいった大鏡二つ。粗末な椅子器具等、すべて裏町の床屋らしき造り。入口に近く、卓子腰掛けなどあって、順番を待つ場所になっている。正面に住いへ通ずるドア。日本郵船のポスタア、新聞の付録の朝鮮美人の石版画、暦など飾ってある。
禹徳淳《うとくじゅん》――煙草行商人。安重根の同志。四十歳。
張首明――鶏林理髪店主。日本のスパイ。
お光――張首明の妻。若い日本婦人。
他に、安重根、下剃り金学甫、客、近所の朝鮮人の男、ロシアの売春婦二人、日本人のスパイ。
椅子の一つに安重根が張首明に顔を剃らしている。もう一つの椅子にも客がいて、金学甫が髪を刈りて終ろうとしている。入口に近い腰掛けにロシア女二人と近所の男が掛けている。
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女一 (髪を束ね直しながら)さ、お神輿《みこし》を上げようかね、朝っぱらから据わり込んでいても、いい話もなさそうだし――。
女二 あああ、ゆうべは羽目を外しちゃった。
近所の男 (女一へ)この人の旦那ってのは、まだあの、鬚をぴんと生やして、拍車のついた長靴を引きずってる、露助《ろすけ》の憲兵さんかい。
女一 やあだ。そうじゃないわよ。あんなのもう何でもないわねえ。今度の人は――言ってもいいわね。日本人の荒物屋さんよ。
男 へっ、日本人《ヤポンスキイ》か。
女二 あ、そうそう。今日か明日、また日本の軍艦が入港《はい》るんですって。港務部へ出てる、あたしの知ってる人がそ言ってたわ。
女一 あら、ほんと? 大変大変!
男 そら始まった。大変はよかったね。日本の水兵が来ると言うと、すぐあれだ。眼の色を変えて騒ぎやがる。
張首明 (安重根の顔を剃りながら)情夫《いろおとこ》でも乗ってるというのかい。
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奥へ通ずる正面のドアから張首明妻お光が出て来る。
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お光 情夫ですって? 面白そうなお話しね。(一同へ)あら、いらっしゃい――日本の水兵さんは、みんなロシア娘の情夫《いろおとこ》なんですとさ。
近所の男 どこがよくてそう日本人なんかに血道を上げる
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