た五カ条の協約を締結しましたが、それはまったく先に宣言せられた韓国の独立を鞏固ならしむるという意に反しておりましたために、尠からず韓国上下の感情を害して、それに対し不服を唱えておりました。のみならず、千八百九十七年にいたりまして、またもや七カ条の協約というものが締結されましたが、これも先の五カ条と同様、韓国皇帝陛下が親ら玉璽《ぎょくじ》を※[#「金+今」、第3水準1−93−5]せられたのではなく、また韓国の総理大臣が同意したものでもない。じつに伊藤統監が強《し》いて圧迫をもって締結されたのであります。
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聴衆は無関心に、じっとしている。眠っている者もある。
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安重根 でありますから、この条約に対して、韓国人はことごとくこれを否認し、ついには憤激のあまり――。
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若い女が頭に水甕《みずがめ》を載せて出て来る。地面に胡座《あぐら》をかいている青年一が呼び停める。
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青年一 水か。待ってた。飲ましてくれ。
女 冗談じゃないよ。お炊事に使うんだから。
青年一 咽喉が乾いて焼けつきそうなんだ。
女 勝手に井戸へ行って飲んで来たらいいじゃないの。
青年一 ちっ! 面倒くせえや。わざわざ起って行くくらいなら我慢すらあ。
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傍らから青年二が女の甕を奪って飲みはじめる。女は争う。
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女 いけないったら、いけないよ、あらあら! こぼして――。
青年二 因業《いんごう》なこと言うなよ。新しいの汲んで来てやったら文句はないだろう。
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飲みつづける。青年一をはじめ、二三人集まって、甕を廻して飲む。笑声が起る。この間も安重根は続けている。
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安重根 (一段大声に)憤激のあまり、この事情を世界に発表しようとするくらいにまで覚悟しておりました。もともとわが韓国は四千年来武の国ではなく、文筆によって立ってきた国です。
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子供が出て来て安重根の前に進む。
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子供 (手を出して)小父ちゃん! 仁丹ある? ひとふくろ。
安重根 (子供を無視して)この国家的思想を鼓吹《こすい》するために――。
子供 小父ちゃん! お母《っか》ちゃんがね、仁丹おくれって。お銭《ぜぜ》持って来たよ、これ。
安重根 (子供に)小父ちゃんは薬売りじゃないよ。さ、あっちへおいで――私はこの国家的思想を鼓吹するために煙秋《エンチュウ》、水青、許発浦、サムワクウ、アジミイなどこの近在の各地を遊説しているものでありますが、国権を回復するまでは、農業にまれ商業にまれ、おのおのその天賦の職業に精励して、いかなる労働も忍んで国家のために尽さなければならない。また場合によっては、戦争もしなければならないのであります。
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遠くから声がする。
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声 貞露! 貞露!――しようがないねえ。どこ行ったんだろう、洗濯物を持ったまんま。
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群集の中から、濡れた洗濯ものを持った女が逃げるように、塀にそって急ぎ足に去る。男の一人が見送る。
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男 おい。貞さん、今夜行くぜ。
女 馬鹿お言いでないよ。
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笑声。眠っている者はびっくりして眼を覚ます。
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安重根 伊藤統監の施政方針はどうしても破壊しなければならない。そのためにはどういうことでもしなければならぬ。若い者は戦争に出て、老人は自分の職業に従事して兵粮や何かの補助をし、子供に対しては相当の教育を授けて第二の国民たる素養を造らねばならぬということを、私は力説したいのであります。
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売薬の名を大きく墨書した白|洋傘《こうもり》をさして、学童の鞄を下げた朝鮮服の男が、安重根と反対側に立って大声に言いはじめる。
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薬売り (鞄から蛇の頭を覗かせて)そうら! 蛇だぞ! ははははは、驚いてはいけない。蛇というとすぐ顔色を変える人がある。ところが、この蛇というやつはまことに可愛いもので、おまけにただ可愛いだけではない。人間さまにとってこれほどありがたい生き物はないんだが、どういうものか毛嫌いする人が多いようです。もっとも、こいつ、あんまり感心した
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