のか。
安重根 徳淳、君あ趙康英《ちょうこうえい》という人を知っているかね?
禹徳淳 趙康英? 聞いたことがある。煙秋《エンチュウ》の田舎の下里で戸籍係をしている男だろう?
安重根 今じゃあ出世してねえ、ポグラニチナヤの税関の主事をしているよ。
禹徳淳 君、早く李剛主筆に会ったほうがいいぜ。一緒に行こう。
安重根 (しんみりと)やはり故里《くに》の人間でねえ、僕んところから三里ほどしか離れてないんだが、今度休暇を取って、ちょっと帰国《かえ》るんだそうだ。それで、手紙を出して頼んであるけれど、僕あポグラニチナヤへ行って、よく相談しようと思っている。故里《くに》のほうに都合がついたら、趙君に面倒を見てもらって、帰りに、ハルビンまで家族《うち》のやつらを伴れて来てもらうつもりだ。旅券の関係で、ウラジオへ呼ぶということは厄介だからねえ。
禹徳淳 (驚いて)ほんとに君は、その用でハルビンへ行くのか。
安重根 そうさ。僕はハルビンで、三年振りに妻や子供に会うんだ。
禹徳淳 何を言ってるんだ――。
安重根 (希望に満ちた様子で)金成白ねえ、君も知ってるだろう? あの金成白の店から、品物を融通してもらって雑貨商でもはじめて、多分、ハルビンに落ち着くことになるだろう。
禹徳淳 (考えたのち笑い出して)ははははは、おれにまで、ははははは、おれにまでそんな用心をしなくてもいい。
安重根 まったく、考えてみると、お互い下らないことに向気《むき》になってたもんさ。こうして外国に出て不自由をしながら、国事だとか言ってみたって始まらないからねえ。同じ苦労するなら、女房や子供を呼んで、すこしでもうまい飯を食わせるように苦労してみる気になったよ――。(笑う)
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間が続く、禹徳淳は沈思している。急に憤然と椅子を起つ。
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禹徳淳 安君――。
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奥に大きな話し声とともに正面のドアがあいて、楊子をくわえた張首明が出て来る。立っている禹徳淳を見て驚く。
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張首明 おや、お帰りですか。
禹徳淳 (狼狽して)急な用事を思い出したんです。後で来ます。
張首明 そうですか。どうもすみません。お急ぎじゃないと思って、ちょっと飯をやってたもんだから――。
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禹徳淳はじろりと安重根を見て、考えながら出て行く。張首明は再び安重根を刈りはじめる。長い間。
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張首明 ははは、飯を食っててお客を逃がしちゃった。しかし、腹が減っちゃあ軍はできませんからね。
安重根 まったく。
張首明 旦那は鎮南浦の方ですね。
安重根 (ぎょっとして)どうしてわかる。
張首明 どうしてって、言葉の調子でわかりまさあ。
安重根 そうですよ。鎮南浦の安重根というんです。
張首明 ここの新聞社の社長さんも鎮南浦の方ですね。李剛先生っていう、御存じですか。
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と表てに気を配る。戸外に、そっと金学甫が案内して、日本人のスパイが来ている。背広服、紳士体の男。安重根は張首明の様子でそれと気づき、何気なく装う。お光が正面の戸を細目に開けて覗いている。
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スパイ (はいって来る)こんちわ。空《す》いてるかね?
安重根 (大声に)そうだ。その李先生に伝言《ことづけ》を頼もう――。
スパイ ここへ坐るかな。
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空き椅子に腰を下ろす。
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張首明 どうぞ――。(奥へどなる)金公! 何してやがるんだろうな。お客さまだぞ。
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金学甫が裏から廻って出て来る。安重根は続けている。
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安重根 (なかばスパイに)たいした用じゃあないよ。ただ李って人はよく知らないでね、一つ僕を君の友達ということにして、紹介する意味で言っておいてもらいたいんだが――。
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スパイは金学甫と談笑しながら、安重根の言葉に聞耳を立てている。
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同じくウラジオストック。鶏林理髪店付近の場末の民家屋根裏、朝鮮字新聞「大東共報」社。編輯局兼印刷工場。同時に主筆李剛夫妻の住居でもある、大東共報社のみすぼらしい全部だ。
片隅に壊れかかった寝台。傍らの壁には衣類など雑然とかかり、床は、食器炊事道具など散乱し、おびただしい洋書、新聞紙の類が山積している。反対側にささやかな植字台、旧式の手刷りの印刷機、そ
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