けこっそり耳打ちしておきましたからね。大丈夫心得ていますよ。知らん顔して、追っつけみんなを帰すでしょうから、安心してゆっくりおやすみなさいよ。
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黄瑞露去る。長い間。
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安重根 (苦笑)そいつあありがたい。そんなに人相が変ったんなら、誰に会ってもわかるまい。
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隣室では禹徳淳の歌の音読がはじまっている。柳麗玉は忍び笑いする。
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安重根 (歌声に聞き入って微笑)元気にやってるなあ。(柳麗玉の様子に気づいて)莫迦によろこんでいるねえ。君もおれにあいつを殺させたい一人なんだろう。みんなのように、ああしておれの志を壮として、行をさかんにしてくれるというわけか。
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柳麗玉の笑いは涕泣《すすりな》きに変っている。
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安重根 (憮然と)何だ、泣いているのか。
柳麗玉 (眼を拭いて)もうじき世界中に有名になる安さんと、こうしているなんて、あんまり嬉しいんで、つい――。同志の方があんなに大騒ぎしている安さんを、あたし、一人占めにしているんだわね。なんだかすまないような気がするわ。
安重根 (自嘲的に)ふん、おれは家族を迎えにハルビンへ行くんだ。
柳麗玉 (わざとらしく)ええ、そうよ。よく解ってますわ。そして、独立党煙秋支部長の安重根――特派活動隊参謀中将の安重根が、すぐ世界の安重根、歴史の安重根になるのね。(感激に耐えかねて)ああ、あたし――あたし、ほんとに幸福だわ。
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安重根は聞いていないように、手早く卓上の行李をあけて、つぎつぎに古着類を取り出す。茶の背広服、同じ色のルバシカ、円い運動帽子など。その動作は急に別人のように活気づいている。
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安重根 (陽気に独語)ハルビンは寒いからな。
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最後に露人の羊皮外套《パルナウルカ》を取り出す。
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安重根 これだ。
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柳麗玉がいそいそと外套を着せる。引きずるように長い。運動帽子をかぶる。考え込んで室内を歩き
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