然として群集を凝視めている。
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同年十月十七日、午前十時ごろ。

ウラジオストック、朝鮮人街、鶏林理髪店の土間。罅のはいった大鏡二つ。粗末な椅子器具等、すべて裏町の床屋らしき造り。入口に近く、卓子腰掛けなどあって、順番を待つ場所になっている。正面に住いへ通ずるドア。日本郵船のポスタア、新聞の付録の朝鮮美人の石版画、暦など飾ってある。
禹徳淳《うとくじゅん》――煙草行商人。安重根の同志。四十歳。
張首明――鶏林理髪店主。日本のスパイ。
お光――張首明の妻。若い日本婦人。
他に、安重根、下剃り金学甫、客、近所の朝鮮人の男、ロシアの売春婦二人、日本人のスパイ。

椅子の一つに安重根が張首明に顔を剃らしている。もう一つの椅子にも客がいて、金学甫が髪を刈りて終ろうとしている。入口に近い腰掛けにロシア女二人と近所の男が掛けている。
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女一 (髪を束ね直しながら)さ、お神輿《みこし》を上げようかね、朝っぱらから据わり込んでいても、いい話もなさそうだし――。
女二 あああ、ゆうべは羽目を外しちゃった。
近所の男 (女一へ)この人の旦那ってのは、まだあの、鬚をぴんと生やして、拍車のついた長靴を引きずってる、露助《ろすけ》の憲兵さんかい。
女一 やあだ。そうじゃないわよ。あんなのもう何でもないわねえ。今度の人は――言ってもいいわね。日本人の荒物屋さんよ。
男 へっ、日本人《ヤポンスキイ》か。
女二 あ、そうそう。今日か明日、また日本の軍艦が入港《はい》るんですって。港務部へ出てる、あたしの知ってる人がそ言ってたわ。
女一 あら、ほんと? 大変大変!
男 そら始まった。大変はよかったね。日本の水兵が来ると言うと、すぐあれだ。眼の色を変えて騒ぎやがる。
張首明 (安重根の顔を剃りながら)情夫《いろおとこ》でも乗ってるというのかい。
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奥へ通ずる正面のドアから張首明妻お光が出て来る。
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お光 情夫ですって? 面白そうなお話しね。(一同へ)あら、いらっしゃい――日本の水兵さんは、みんなロシア娘の情夫《いろおとこ》なんですとさ。
近所の男 どこがよくてそう日本人なんかに血道を上げる
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