。孔子の所謂る其の心に順ひて其の則《のり》を越えざる底《てい》のものならざるべからず。是を喩ふれば、水の流るゝが如く、鳥の鳴くが如く、野の花の咲くが如く、赤兒の母を慕ふが如く、古の忠臣義士の其の君國に殉したるが如きものならざるべからず。而して道徳も茲に至れば即ち無道徳のみ。既に意識を絶し、考察を絶し、又戮力を絶す。是れ一種の習慣、本能のみ、道徳的價値あるを得ざるや言ふ迄も無し。思ふて是《こゝ》に至れば、吾人は大道|廢《すた》れて仁義ありてふ老子の言の、千古の眞理なるを認むると同時に、所謂る道徳なるものの價値の甚だ貧少なるに驚かざるを得ざる也。
更に一歩を進めて是を觀む乎。道徳の極度は無道徳に存すてふ命題は、取りも直さず本能の絶對的價値を證明するものならずや。吾人が日常の習慣と雖も、一旦夕にして成立し得るものにあらず、其の初めに當りては實に幾多の苦痛と煩悶と戮力とを要するなり。吾人の本能なるものは、謂はば種族的習慣也。幸にして後代に生れたる吾人は、無念無爲にして其の滿足を享受すと雖も、試みに吾人の祖先が是の如き遺産を吾人に傳へ得るまでに、幾何の星霜と苦痛とを經過したりしかを考へよ。吾人は祖先の鴻大無邊なる恩惠に對して、現當の幸福を感謝せずむばあらざるなり。是の如き本能を成立し得むが爲に費されたる血と涙と生命と年處とは、道學先生が卓上の思索に本ける道徳などに較ぶべきものにあらず。吾人は祖先の鴻恩を感謝すると同時に、是の貴重なる遺産を鄭重に持續し、是の遺産より生ずる幸福を空しくせざらむことを務めざるべからず。而して是を務むる所以のものは、吾人の所謂る美的生活、是れ也。
五 美的生活の絶對的價値
美的生活は、人性本然の要求を滿足する所に存するを以て、生活其れ自らに於て既に絶對の價値を有す。理も枉ぐべからず、智も搖《うご》かすべからず、天下の威武を擧げて是れに臨むも如何ともすべからざる也。然れども道徳的并に知識的の生活は其の本來の性質に於て既に相對の價値を有するに過ぎず、是を以て己れより優れるには輙《すなは》ち移り、己れより強きものには輙ち屈す。昨是今非、轉々として底止する所を知らず。道徳哲學の歴史は是の流轉の歴程を示して餘りあるを見ずや。
其の價値に於て既に相對たり、エキストリンジックたり、道徳、知識の上に安住の地を求めむとするは蓋し難い哉、道徳の上より見れば、人生は義務の永遠なる連鎖也、一鐶去れば一鐶來る。所謂る至善の境は一片の理想に過ぎずして、力行の道程は日月と共に終始せむ。人は旦暮の生を受けて是の間に營々たり、命《めい》や慘澹たらずとせむや。眞理とは何ぞやとは、ピラートが怪み問ひたる言葉なりき。然れども二千年の歴史に於て誰か吾人に眞理を明ししものぞ。學者は天上の星の如く、著書は海邊の砂の如し、彼等自らの信じて不朽の眞理と公言せしもの、今はた何の状ぞ。學者よ、吾人に究竟の眞理を訓へむよりは、古の哲學者の如く、大地を負へる龜を負ふものの何物なるかを究むるを寧ろ賢なりとせむ。畢竟知識は疑問の積聚のみ、一疑※[#非0213外字:「厂+菫」、ただし「菫」は第3水準1−92−16のつくりの形、読みは「わづ」、289−上−12]かに解すれば一疑新たに次ぐ。依つて以て安住の地盤を求めむは、百年坐して河清を待つに等しからむ。
美的生活は全く是れと異なれり。其の價値や既に絶對也、イントリンジック也。依る所なく、拘る所なく、渾然として理義の境を超脱す。是れ安心の宿る所、平和の居る所、生々存續の勢力を有して宇宙發達の元氣の藏せらるゝ所、人生至樂の境地、是を外にして何處にか求むべき。道徳や、知識や、是の幸福を調攝して、其の發達を助成するところに用あり。其の用や消極的たり、相對的たり、方便たり、手段たり。夫《か》の僞學と云ひ、腐儒と云ひ、方便主義と云ふが如きものは、畢竟是の人生の歸趣に關する本末を顛倒したるところに生ずる病的現象に外ならざるのみ。
是の如く説き來らば、讀者は其の世上道學先生の所説と甚《はなは》だ同じからざるを怪まむ。然れども讀者よ、吾人は何の宿罪ありて道學先生の云爲に傚はざるべからざる乎。
六 美的生活の事例
上文を説けるが如く、價値の絶對なるもの、是を美的と爲し、美的價値の最も醇粹なるもの、是を本能の滿足と爲す。然れども本能以外の事物と雖も、其の價値の絶對と認めらるゝものは亦美的たるを妨げず。是《こゝ》に於てか美的生活の範圍も亦隨うて本能の滿足以外に擴充せらるゝことを得。
例へば、道徳は相對の價値を有するを以て本來の性質と爲す。然れども若し人ありて道徳其物に絶對の價値ありと爲し、其の奉行を以て人生究竟の目的なりとなさば、是れ既に道徳的に非ずして、美的也。是の如き人の態度は、實際的に非ずして翫賞的也
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