能に本く、彼等の行爲も亦是の如しとせば、畢竟其の道徳的價値に於て缺くる所ありと斷ぜざるべからず。
 是の如く觀來れば、吾人は道徳其物の價値の、甚だ貧少なることを思はざるを得ず。良しや道徳上善事に非ずと判斷せられたりとするも、楠公の行爲に何の影響するところぞ。倫理學説が其の價値を認めずとするも、忠臣義士は長へに忠臣義士たり、孝子烈婦は長へに孝子烈婦たり、人間の最も美《うる》はしく貴むべき現象たることに於ては毫も渝るところ無き也。是れに由りて之を見れば、善と云ひ不善と云ふもの、畢竟人間知見上の名目に過ぎずして、人生本來の價値としては殆ど言ふに足らざるものに非ざる乎、否乎。
 一度び是の見地に據りて觀ずれば、人生の事相《じさう》おのづから別種の面目を呈露し來るを見る。是れ吾人の人生觀が道學先生のそれと異なる所以にして、亦茲に美的生活を論じて敢て是を推奬する所以也。讀者暫く忍んで吾人の言ふ所に聽かむ乎。

     三 人性の至樂

 何の目的ありて是の世に産出せられたるかは、吾人の知る所に非ず。然れども生れたる後の吾人の目的は、言ふまでもなく幸福なるにあり。幸福とは何ぞや、吾人の信ずる所を以て見れば、本能の滿足、即ち是れのみ。本能とは何ぞや、人性本然の要求是れ也。人性本然の要求を滿足せしむるもの、茲に是を美的生活と云ふ。
 道徳と理性とは、人類を下等動物より區別する所の重《おも》なる特質也。然れども吾人に最大の幸福を與へ得るものは是の兩者に非ずして、實は本能なることを知らざるべからず。蓋し人類は其の本然の性質に於て下等動物と多く異なるものに非ず。世の道學先生の説くところ、理義如何に高く、言辭如何に妙なるも、若し彼等をして其の衷心の所信を赤裸々に告白するの勇氣だにあらしめむか、必ずや人生の至樂は畢竟性慾の滿足に存することを認むるならむ。吾人に知識の慾ありて眞理を悟らむことを欲し、道義の念ありて善徳を修めむことを望む。是等の慾望の到達せられたる處に一種の快樂あるや素より論なし。然れども是の種の快樂や極めて淡く、極めて輕く、其力到底人性の要求を飽足するに足らざるを如何せむ。まことに高尚深遠なるらしき幾多の文字は、是の種の快樂の讃美に使用せらると雖も、吾人をして忌憚なく言はしむれば、是れ一種の僞善に過ぎざるのみ。哲學書一卷を讀破して未了の知識に逢着する時、快は則ち快ならむも、終日勞し來りて新浴|方《まさ》に了り、徐ろに一盞の美酒を捧げて清風江月に對する時と孰れぞ。貧を※[#「血+おおざと」、第4水準2−88−4]み孤を助くる時、快は則ち快ならむも、佳人と携へて芬蘭の室に憑り、陶然として名手の樂に聽く時と孰れぞ。勉學に死し、慈善に狂せるの例は吾人の多く知らざる所なりと雖も、戀愛に對しては人生の價値寧ろ輕きを覺ゆるに非ずや。誤つて萬物の靈長と稱せられてより、人は漸く其の動物の本性を暴露するを憚り、自ら求めて、もしくは知らず/\其の本然の要求に反して虚僞の生活を營むに至る。而して吾人の見る所を以てすれば、人類をして茲に至らしめたるものは、實に人類をして萬物の靈長たらしめたる道徳と知識とに外ならず。知らず、道徳と知識と畢竟何の用ぞ。

     四 道徳と知識との相對的價値

 吾人の見る所によれば、道徳と知識とは、其物|自《みづか》らに於て多く獨立の價値を有するものに非ず。其の用は吾人が本能の發動を調攝し、其の滿足の持續を助成する所に存す。下等動物は、盲目なる本能の外に、自己を指導する何物をも有せざるを以て、往々不慮の災禍に罹るを免れず、隨つて其の滿足も亦不完全ならざるを得ざる也。然るに人類は是非を判ずるの理性を有し、善惡を別つの道念を具《そな》ふ。是に於てか其の本能は一方に於て其の自由の發動を制限せらるゝ代りに、他方に於ては其の滿足の持續に於て遙に他動物に優るものあり。是れ他動物に對して人類の幸福の比較的に恆久なるを得る所以也。畢竟知識と道徳とは盲目なる本能の指導者のみ、助言者のみ、本能は君主にして知徳は臣下のみ、本能は目的にして知徳は手段のみ。知徳其物は決して人生の幸福を成すものに非ざる也。
 道徳が一方便に過ぎざることは、其の極度の無道徳に存することにても知らるべけむ。道徳は善を獎勵す、而して善は戮力を須要とす。あゝ戮力を待つて成立し得べき道徳は卑しむべき哉。戮力は障害を排斥するの謂なり。善事を行はむとする際の内心の障害は即ち惡念也。善|既《すで》に戮力を待つて成立すべしとせば、善事は其の行爲者に於て既に惡念を預想するものに非ずや。換言すれば、彼は多少の意味に於て惡人たる也、不道徳の人たる也。天下の善人盡く惡人たりとせば、吾人|豈《あに》道徳の鼎の輕重を問はざるを得むや。是《こゝ》を以て道徳の理想は戮力なくして成立し得るものならざるべからず
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