勞し來りて新浴|方《まさ》に了り、徐ろに一盞の美酒を捧げて清風江月に對する時と孰れぞ。貧を※[#「血+おおざと」、第4水準2−88−4]み孤を助くる時、快は則ち快ならむも、佳人と携へて芬蘭の室に憑り、陶然として名手の樂に聽く時と孰れぞ。勉學に死し、慈善に狂せるの例は吾人の多く知らざる所なりと雖も、戀愛に對しては人生の價値寧ろ輕きを覺ゆるに非ずや。誤つて萬物の靈長と稱せられてより、人は漸く其の動物の本性を暴露するを憚り、自ら求めて、もしくは知らず/\其の本然の要求に反して虚僞の生活を營むに至る。而して吾人の見る所を以てすれば、人類をして茲に至らしめたるものは、實に人類をして萬物の靈長たらしめたる道徳と知識とに外ならず。知らず、道徳と知識と畢竟何の用ぞ。

     四 道徳と知識との相對的價値

 吾人の見る所によれば、道徳と知識とは、其物|自《みづか》らに於て多く獨立の價値を有するものに非ず。其の用は吾人が本能の發動を調攝し、其の滿足の持續を助成する所に存す。下等動物は、盲目なる本能の外に、自己を指導する何物をも有せざるを以て、往々不慮の災禍に罹るを免れず、隨つて其の滿足も亦不完全ならざるを得ざる也。然るに人類は是非を判ずるの理性を有し、善惡を別つの道念を具《そな》ふ。是に於てか其の本能は一方に於て其の自由の發動を制限せらるゝ代りに、他方に於ては其の滿足の持續に於て遙に他動物に優るものあり。是れ他動物に對して人類の幸福の比較的に恆久なるを得る所以也。畢竟知識と道徳とは盲目なる本能の指導者のみ、助言者のみ、本能は君主にして知徳は臣下のみ、本能は目的にして知徳は手段のみ。知徳其物は決して人生の幸福を成すものに非ざる也。
 道徳が一方便に過ぎざることは、其の極度の無道徳に存することにても知らるべけむ。道徳は善を獎勵す、而して善は戮力を須要とす。あゝ戮力を待つて成立し得べき道徳は卑しむべき哉。戮力は障害を排斥するの謂なり。善事を行はむとする際の内心の障害は即ち惡念也。善|既《すで》に戮力を待つて成立すべしとせば、善事は其の行爲者に於て既に惡念を預想するものに非ずや。換言すれば、彼は多少の意味に於て惡人たる也、不道徳の人たる也。天下の善人盡く惡人たりとせば、吾人|豈《あに》道徳の鼎の輕重を問はざるを得むや。是《こゝ》を以て道徳の理想は戮力なくして成立し得るものならざるべからず
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