色|徒《たゞ》ならず。父は暫《しば》し語《ことば》なく俯《うつむ》ける我子の顏を凝視《みつ》め居しが、『時頼、そは正氣《しやうき》の言葉か』。『小子《それがし》が一生の願ひ、神以《しんもつ》て詐《いつわ》りならず』。左衞門は兩手を膝に置き直して聲勵まし、『やよ時頼、言ふまでもなき事なれど、婚姻は一生の大事と言ふこと、其方《そち》知らぬ事はあるまじ。世にも人にも知られたる然《しか》るべき人の娘を嫁子《よめご》にもなし、其方《そち》が出世をも心安うせんと、日頃より心を用ゆる父を其方は何と見つるぞ。よしなき者に心を懸けて、家の譽をも顧みぬほど、無分別の其方《そち》にてはなかりしに、扨は豫《かね》てより人の噂に違はず、横笛とやらの色に迷ひしよな』。『否、小子《それがし》こと色に迷はず、香《か》にも醉はず、神以《しんもつ》て戀でもなく浮氣でもなし、只々少しく心に誓ひし仔細の候へば』。
左衞門は少しく色を起し、『默れ時頼、父の耳目を欺かん其の語《ことば》、先頃其方が儕輩の足助《あすけ》の二郎殿、年若きにも似ず、其方が横笛に想ひを懸け居ること、後の爲ならずと懇《ねんごろ》に潛かに我に告げ呉れしが、其方《そち》に限りて浮きたる事のあるべきとも思はれねば、心も措かで過ぎ來りしが、思へば父が庇蔭目《ひいきめ》の過《あやま》ちなりし。神以て戀にあらずとは何處《どこ》まで此父を袖になさんずる心ぞ、不埒者め。話にも聞きつらん、祖先|兵衞《ひやうゑ》直頼殿、餘五將軍《よごしやうぐん》に仕《つか》へて拔群《ばつくん》の譽を顯はせしこのかた、弓矢《ゆみや》の前には後《おく》れを取らぬ齋藤の血統《ちすぢ》に、女色《によしよく》に魂を奪はれし未練者は其方が初めぞ。それにても武門の恥と心付かぬか、弓矢の手前に面目なしとは思はずか。同じくば名ある武士の末にてもあらばいざしらず、素性《すじやう》もなき土民郷家の娘に、茂頼斯くて在らん内は、齋藤の門をくゞらせん事思ひも寄らず』。
老《おい》の一徹短慮に息卷《いきま》き荒《あら》く罵れば、時頼は默然として只々|差俯《さしうつむ》けるのみ。やゝありて、左衞門は少しく面《おもて》を和《やは》らげて、『いかに時頼、人若《ひとわか》き間は皆|過《あやま》ちはあるものぞ、萌え出《い》づる時の美《うる》はしさに、霜枯《しもがれ》の哀れは見えねども、何《いづ》れか秋に遭《あ》はで果《は》つべき。花の盛りは僅に三日にして、跡の青葉《あをば》は何《いづ》れも色同じ、あでやかなる女子の色も十年はよも續かぬものぞ、老いての後に顧れば、色めづる若き時の心の我ながら解《わか》らぬほど癡《たは》けたるものなるぞ。過ちは改むるに憚る勿れとは古哲の金言、父が言葉|腑《ふ》に落ちたるか、横笛が事思ひ切りたるか。時頼、返事のなきは不承知か』。
今まで眼を閉ぢて默然《もくねん》たりし瀧口は、やうやく首《かうべ》を擡《もた》げて父が顏を見上げしが、兩眼は潤《うるほ》ひて無限の情を湛《たゝ》へ、滿面に顯せる悲哀の裡《うち》に搖《ゆる》がぬ決心を示し、徐《おもむ》ろに兩手をつきて、『一一道理ある御仰《おんおほせ》、横笛が事、只今限り刀にかけて思ひ切つて候、其の代りに時頼が又の願ひ、御聞屆《おんきゝとゞけくだ》下さるべきや』。左衞門は然《さ》さもありなんと打點頭《うちうなづ》き、『それでこそ茂頼が悴《せがれ》、早速の分別、父も安堵したるぞ、此上の願とは何事ぞ』。『今日より永のおん暇《いとま》を給はりたし』。言ひ終るや、堰止《せきと》めかねし溜涙《ためなみだ》、はら/\と流しぬ。
第九
天にも地にも意外の一言に、左衞門呆れて口も開かず、只々其子の顏色打ち※[#「※」は「めへん+帝」、読みは「まも」、28−2]《まも》れば、瀧ロは徐ろに涙を拂ひ、『思ひの外なる御驚《おんおどろき》きに定めて浮《うわ》の空《そら》とも思《おぼ》されんが、此願ひこそは時頼が此座の出來心《できごゝろ》にては露候《つゆさふら》はず、斯かる曉にはと豫《かね》てより思決《おもひさだ》めし事に候。事の仔細を申さば、只々御心に違《たが》ふのみなるべけれども、申さざれば猶ほ以て亂心の沙汰とも思召《おぼしめ》されん。申すも思はゆげなる横笛が事、まこと言ひ交《かは》せし事だになけれども、我のみの哀れは中々に深さの程こそ知れね、つれなき人の心に猶更《なほさ》ら狂ふ心の駒を繋がむ手綱《たづな》もなく、此の春秋《はるあき》は我身ながら辛《つら》かりし。神かけて戀に非ず、迷に非ずと我は思へども、人には浮氣とや見えもしけん。唯々|劒《つるぎ》に切らん影もなく、弓もて射ん的《まと》もなき心の敵に向ひて、そも幾《いく》その苦戰をなせしやは、父上、此の顏容《かほかたち》のやつれたるにて御推量下されたし。時頼が六尺の體によくも擔《にな》ひしと自らすら駭く計りなる積り/\し憂事《うきこと》の數、我ならで外に知る人もなく、只々戀の奴よ、心弱き者よと世上《せじやう》の人に歌はれん殘念さ、誰れに向つて推量あれとも言はん人なきこそ、返す返すも口惜しけれ。此儘の身にては、どの顏|下《さ》げて武士よと人に呼ばるべき、腐れし心を抱《いだ》きて、外見ばかりの伊達《だて》に指さん事、兩刀の曇なき手前に心とがめて我から忍びず、只々此上は横笛に表向き婚姻を申入るゝ外なし、されどつれなき人心、今更靡かん樣もなく、且や素性《すじやう》賤《いや》しき女子なれば、物堅き父上の御容《おんゆる》しなき事|元《もと》より覺悟候ひしが、只々最後の思出《おもひで》にお耳を汚したるまでなりき。所詮天魔に魅入《みい》られし我身の定業《ぢやうごふ》と思へば、心を煩はすもの更になし。今は小子《それがし》が胸には横笛がつれなき心も殘らず、月日と共に積りし哀れも宿さず、人の恨みも我が愛《いつく》しみも洗ひし如く痕なけれども、殘るは只々此世の無常にして頼み少きこと、秋風の身にしみ/″\と感じて有漏《うろ》の身の換へ難き恨み、今更|骨身《ほねみ》に徹《こた》へ候。惟《おもんみ》れば誰が保ちけん東父西母が命《いのソ》、誰が嘗《な》めたりし不老不死の藥、電光の裏に假の生を寄せて、妄念の間に露の命を苦しむ、愚《おろか》なりし我身なりけり。横笛が事、御容しなきこと小子《それがし》に取りては此上もなき善知識。今日《けふ》を限りに世を厭ひて誠の道に入り、墨染の衣《ころも》に一生を送りたき小子《それがし》が決心。二十餘年の御恩の程は申すも愚《おろか》なれども、何れ遁《のが》れ得ぬ因果の道と御諦《おんあきらめ》ありて、永《なが》の御暇《おんいとま》を給はらんこと、時頼が今生《こんじやう》の願に候』。胸一杯の悲しみに語《ことば》さへ震へ、語り了ると其儘、齒根《はぐき》喰ひ絞《しば》りて、詰《き》と耐ゆる斷腸の思ひ、勇士の愁歎、流石《さすが》にめゝしからず。
過ぎ越《こ》せし六十餘年の春秋、武門の外を人の住むべき世とも思はず、涙は無念の時出づるものぞと思ひし左衞門が耳に、哀れに優しき瀧口が述懷の、何として解《と》かるべき。歌詠《うたよ》む人の方便とのみ思ひ居し戀に惱みしと言ふさへあるに、木の端《はし》とのみ嘲りし世捨人《よすてびと》が現在我子の願ならんとは、左衞門|如何《いか》でか驚かざるを得べき。夢かとばかり、一度は呆れ、一度は怒り、老の兩眼に溢るゝばかりの涙を浮べ、『やよ悴《せがれ》、今言ひしは慥に齋藤時頼が眞の言葉か、幼少より筋骨《きんこつ》人に勝れて逞しく、膽力さへ座《すわ》りたる其方、行末の出世の程も頼母しく、我が白髮首《しらがくび》の生甲斐《いきがひ》あらん日をば、指折りながら待侘《まちわ》び居たるには引換へて、今と言ふ今、老の眼に思ひも寄らぬ恥辱を見るものかな。奇怪とや言はん、不思議とや言はん。慈悲深き小松殿が、左衞門は善き子を持たれし、と我を見給ふ度毎《たびごと》のお言葉を常々人に誇りし我れ、今更乞食坊主の悴を持ちて、いづこに人に合《あは》する二つの顏ありと思うてか。やよ、時頼、ヨツク聞け、他は言はず、先祖代々よりの齋藤一家が被りし平家の御恩はそも幾何なりと思へるぞ。殊に弱年の其方を那程《あれほど》に目をかけ給ふ小松殿の御恩に對しても、よし如何に堪へ難き理由《わけ》あればとて、斯かる方外の事、言はれ得る義理か。弓矢の上にこそ武士の譽はあれ、兩刀捨てて世を捨てて、悟り顏なる悴を左衞門は持たざるぞ。上氣《じやうき》の沙汰ならば容赦《ようしや》もせん、性根《しやうね》を据ゑて、不所存のほど過《あやま》つたと言はぬかツ』。兩の拳を握りて、怒りの眼は鋭けれども、恩愛の涙は忍ばれず、雙頬傳うてはふり落つるを拭ひもやらず、一息つよく、『どうぢや、時頼、返答せぬかッ』。
第十
深く思ひ決《さだ》めし瀧口が一念は、石にあらねば轉《まろ》ばすべくもあらざれども、忠と孝との二道《ふたみち》に恩義をからみし父の言葉。思ひ設けし事ながら、今更に腸《はらわた》も千切《ちぎ》るゝばかり、聲も涙に曇りて、見上ぐる父の顏も定かならず、『仰せらるゝ事、時頼いかで理《ことわり》と承らざるべき。小松殿の御事は云ふも更なり、年寄り給ひたる父上に、斯かる嘆《なげき》を見參らする小子《それがし》が胸の苦しさは喩ふるに物もなけれども、所詮浮世と觀じては、一切の望に離れし我心、今は返さん術《すべ》もなし、忠孝の道、君父の恩、時頼何として疎《おろそ》かに存じ候べき。然《さ》りながら、一度人身を失へば萬劫還らずとかや、世を換へ生を移しても、生死妄念を離れざる身を思へば、悟《さとり》の日の晩《おそ》かりしに心|急《せ》かれて、世は是れ迄とこそ思はれ候へ。只々是れまで思ひ決めしまで重ね/″\し幾重の思案をば、御知りなき父上には、定めて若氣《わかげ》の短慮とも、當座の上氣《じやうき》とも聞かれつらんこそ口惜しけれ、言はば一生の浮沈に關《かゝは》る大事、時頼不肖ながらいかでか等閑《なほざり》に思ひ候べき。詮ずるに自他の悲しみを此胸一つに收め置いて、亡《なか》らん後の世まで知る人もなき身の果敢《はか》なさ、今更《いまさら》是非もなし。父上、願ふは此世の縁を是限《これかぎ》りに、時頼が身は二十三年の秋を一期に病の爲に敢《あへ》なくなりしとも御諦《おんあきら》め下されかし。不孝の悲しみは胸一つには堪へざれども、御詫《おんわび》申さんに辭《ことば》もなし、只々|御赦《おんゆる》しを乞ふ計りに候』。
濺《そゝ》ぐ涙に哀れを籠《こ》めても、飽くまで世を背に見たる我子の決心、左衞門|今《いま》は夢とも上氣とも思はれず、愛《いと》しと思ふほど彌増《いやま》す憎《にく》さ。慈悲と恩愛に燃ゆる怒の焔《ほのほ》に滿面|朱《しゆ》を濺げるが如く、張り裂く計りの胸の思ひに言葉さへ絶え/″\に、『イ言はして置けば父をさし置きて我れ面白《おもしろ》の勝手《かつて》の理窟、左衞門聞く耳持たぬぞ。無常困果と、世にも癡《たは》けたる乞食坊主のえせ假聲《こわいろ》、武士がどの口もて言ひ得る語《ことば》ぞ。弓矢とる身に何の無常、何の困果。――時頼、善く聞け、畜類の狗《いぬ》さへ、一日の飼養に三年の恩を知ると云ふに非ずや。匐《は》へば立て、立てば歩めと、我が年の積《つも》るをも思はで育て上げし二十三年の親の辛苦、さては重代相恩《ぢゆうだいさうおん》の主君にも見換へんもの、世に有りと思ふ其方は、犬にも劣りしとは知らざるか。不忠とも、不孝とも、亂心とも、狂氣とも、言はん樣なき不所存者、左衞門が眼には、我子の容《かたち》に化《ば》けし惡魔とより外は見えざるぞ、それにても見事其處に居直りて、齋藤左衞門茂頼が一子ぞと言ひ得るか、ならば御先祖の御名立派に申して見よ。其方より暇乞ふ迄もなし、人の數にも入らぬ木の端《はし》は、勿論親でもなく、子でもなし。其一念の直らぬ間は、時頼、シヽ七生までの義絶ぞ』。言ひ捨てて、襖立切《ふすまたてき》り、疊觸《たゝみざは》りはも荒々《あら/\》しく、ツと奧に入りし左衞門。跡見送らんともせず、時頼は兩手をはたとつきて、兩眼
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