ゆゑ》の此つれなさと我を恨み給はんことのうたてさよ。あはれ故内府在天の靈も照覽あれ、血を吐くばかりの瀧口が胸の思ひ、聊か二十餘年の御恩に酬ゆるの寸志にて候ぞや。
松杉暗き山中なれば、傾き易き夕日の影、はや今日の春も暮れなんず。姿ばかりは墨染にして、君が行末を嶮《けは》しき山路に思ひ較《くら》べつ、溪間《たにま》の泉を閼伽桶《あかをけ》に汲取りて立ち歸る瀧口入道、庵の中を見れば、維盛卿も重景も、何處に行きしか、影もなし。扨は我が諫めを納《い》れ給ひて屋島《やしま》に歸られしか、然るにても一言の我に御|告知《しらせ》なき訝しさよ。四邊《あたり》を見※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、104−6]《みまは》せば不圖《ふと》眼にとまる經机《きやうづくゑ》の上にある薄色の折紙、取り上げ見れば維盛卿の筆と覺しく、水莖《みづぐき》の跡|鮮《あざ》やかに走り書せる二首の和歌、
かへるべき梢はあれどいかにせん
風をいのちの身にしあなれば
濱千鳥入りにし跡をしらせねば
潮のひる間に尋ねてもみよ
哀れ、御身を落葉と觀《くわん》じ給ひて元の枝をば屋島とは見給ひけん、入りにし跡を何處とも知らせぬ濱千鳥、潮干《しほひ》の磯に何を尋ねよとや。――扨はとばかり瀧口は、折紙の面《おもて》を凝視《みつ》めつゝ暫時《しばし》茫然として居たりしが、何思ひけん、豫《あらか》じめ祕藏せし昔の名殘《なごり》の小鍛冶《こかぢ》の鞘卷、狼狽《あわたゞ》しく取出して衣《ころも》の袖に隱し持ち、麓の方に急ぎける。
路傍の家に維盛卿が事それとなしに尋ぬれば、狩衣《かりぎぬ》着《き》し侍《さむらひ》二人《ふたり》、麓《ふもと》の方に下りしは早や程過ぎし前の事なりと答ふるに、愈々足を早め、走るが如く山を下りて、路すがら人に問へば、尋ぬる人は和歌の浦さして急ぎ行きしと言ふ。瀧口胸愈々轟き、氣も半《なかば》亂れて飛ぶが如く濱邊《はまべ》をさして走り行く。雲に聳ゆる高野の山よりは、眼下に瞰下《みおろ》す和歌の浦も、歩めば遠き十里の郷路、元より一|刻半※[#「※」は「ひへん+向」、読みは「とき」、第3水準1−85−25、105−8]《こくはんとき》の途ならず。日は既に暮れ果てて、朧げながら照り渡る彌生半《やよひなかば》の春の夜の月、天地を鎖す青紗の幕は、雲か烟か、將《は》た霞か、風雄のすさびならで、生死の境に爭へる身のげに一刻千金の夕かな。夢路を辿る心地して、瀧口は夜すがら馳せて辛《やうや》く着ける和歌の浦。見渡せば海原《うなばら》遠《とほ》く烟籠《けぶりこ》めて、月影ならで物もなく、濱千鳥聲絶えて、浦吹く風に音澄める磯馳松《そなれまつ》、波の響のみいと冴えたり。入りにし人の跡もやと、此處彼處《こゝかしこ》彷徨《さまよ》へば、とある岸邊《きしべ》の大なる松の幹を削《けづ》りて、夜目《よめ》にも著《しる》き數行の文字。月の光に立寄り見れば、南無三寶。『祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公法名淨蓮、三位中將維盛年二十七歳、壽永三年三月十八日和歌の浦に入水《じゆすゐ》す、徒者足助二郎重景二十五歳殉死す』。墨痕淋漓として乾かざれども、波靜かにして水に哀れの痕も殘らず。瀧口は、あはやと計り松の根元《ねもと》に伏轉《ふしまろ》び、『許し給へ』と言ふも切《せつ》なる涙聲、哀れを返す何處の花ぞ、行衞も知らず二片三片《ふたひらみひら》、誘ふ春風は情か無情か。
* *
* *
次の日の朝、和歌の浦の漁夫《ぎよふ》、磯邊に來て見れば、松の根元に腹掻切《はらかきき》りて死せる一個の僧あり。流石|汚《けが》すに忍びでや、墨染の衣は傍らの松枝《まつがえ》に打ち懸けて、身に纏へるは練布の白衣、脚下に綿津見《わたつみ》の淵を置きて、刀持つ手に毛程の筋の亂れも見せず、血汐の糊《のり》に塗《まみ》れたる朱溝《しゆみぞ》の鞘卷|逆手《さかて》てに握りて、膝も頽《くづ》さず端坐《たんざ》せる姿は、何れ名ある武士の果ならん。
嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり。
底本:「瀧口入道」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年12月2日第1刷発行
1968(昭和43)年10月16日第32刷改版発行
1980(昭和55)年3月10日第43刷発行
入力:笠置一郎
校正:双沢薫
2001年7月12日公開
2001年7月16日修正
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