聞きも了らで、老女はホヽと意味ありげなる笑《ゑみ》を殘して門内に走り入りぬ。
『横笛、横笛』、件の武士は幾度か獨語《ひとりご》ちながら、徐《おもむろ》に元來し方に歸り行きぬ。霞の底に響く法性寺《ほふしやうじ》の鐘の聲、初更《しやかう》を告ぐる頃にやあらん。御溝の那方《あなた》に長く曳ける我影に駭《おどろ》きて、傾く月を見返る男、眉太《まゆふと》く鼻隆《はなたか》く、一見|凜々《りゝ》しき勇士の相貌、月に笑めるか、花に咲《わら》ふか、あはれ瞼《まぶた》の邊《あたり》に一掬の微笑を帶びぬ。

   第三

 當時小松殿の侍に齋藤瀧口《さいとうのたきぐち》時頼と云ふ武士ありけり。父は左衞門|茂頼《もちより》とて、齡古稀《よはひこき》に餘れる老武者《おいむしや》にて、壯年の頃より數ケ所の戰場にて類稀《たぐひまれ》なる手柄《てがら》を顯はししが、今は年老たれば其子の行末を頼りに殘年を樂みける。小松殿は其功を賞《め》で給ひ、時頼を瀧口の侍に取立て、數多《あまた》の侍の中に殊に恩顧を給はりける。
 時頼|是《こ》の時年二十三、性《せい》濶達にして身の丈《たけ》六尺に近く、筋骨飽くまで逞《たくま》しく、早く母に別れ、武骨一邊の父の膝下《ひざもと》に養はれしかば、朝夕|耳《みゝ》にせしものは名ある武士が先陣|拔懸《ぬけが》けの譽《ほまれ》れある功名談《こうみやうばなし》にあらざれば、弓箭甲冑の故實《こじつ》、髻垂《もとどりた》れし幼時より劒《つるぎ》の光、弦《ゆづる》の響の裡に人と爲りて、浮きたる世の雜事《ざれごと》は刀の柄《つか》の塵程も知らず、美田《みた》の源次が堀川《ほりかは》の功名に現《うつゝ》を拔《ぬ》かして赤樫《あかがし》の木太刀を振り舞はせし十二三の昔より、空肱撫《からひぢな》でて長劒の輕きを喞《かこ》つ二十三年の春の今日《けふ》まで、世に畏ろしきものを見ず、出入《いでい》る息を除《のぞ》きては、六尺の體《からだ》、何處を膽と分つべくも見えず、實に保平《ほうへい》の昔を其儘の六波羅武士の模型なりけり。然《さ》れば小松殿も時頼を末頼母《すゑたのも》しきものに思ひ、行末には御子維盛卿の附人《つきびと》になさばやと常々目を懸けられ、左衞門が伺候《しこう》の折々に『茂頼、其方《そち》は善き悴《せがれ》を持ちて仕合者《しあはせもの》ぞ』と仰せらるゝを、七十の老父、曲《まが》りし背も反《そ》らん計りにぞ嬉しがりける。
 時は治承《ぢしよう》の春、世は平家の盛、そも天喜《てんぎ》、康平《かうへい》以來九十年の春秋《はるあき》、都も鄙《ひな》も打ち靡きし源氏の白旗《しらはた》も、保元《ほうげん》、平治《へいぢ》の二度の戰《いくさ》を都の名殘に、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより、六十餘州に到らぬ隈《くま》なき平家の權勢、驕《おご》るもの久しからずとは驕れるもの如何で知るべき。養和《やうわ》の秋、富士河の水禽《みづとり》も、まだ一年《ひととせ》の來《こ》ぬ夢なれば、一門の公卿殿上人《こうけいてんじやうびと》は言はずもあれ、上下の武士|何時《いつ》しか文弱《ぶんじやく》の流《ながれ》に染《そ》みて、嘗て丈夫《ますらを》の譽に見せし向ふ疵も、いつの間にか水鬢《みづびん》の陰《かげ》に掩《おほ》はれて、重《おも》きを誇りし圓打《まるうち》の野太刀《のだち》も、何時しか銀造《しろがねづくり》の細鞘に反《そり》を打たせ、清らなる布衣《ほい》の下に練貫《ねりぬき》の袖さへ見ゆるに、弓矢持つべき手に管絃の調《しらべ》とは、言ふもうたてき事なりけり。
 時頼|世《よ》の有樣を觀て熟々《つら/\》思ふ樣《やう》、扨も心得ぬ六波羅武士が擧動《ふるまひ》かな、父なる人、祖父なる人は、昔知らぬ若殿原に行末短き榮耀《ええう》の夢を貪らせんとて其の膏血はよも濺《そゝ》がじ。萬一|事有《ことあ》るの曉には絲竹《いとたけ》に鍛へし腕《かひな》、白金造《しろがねづくり》の打物《うちもの》は何程の用にか立つべき。射向《いむけ》の袖を却て覆ひに捨鞭《すてむち》のみ烈しく打ちて、笑ひを敵に殘すは眼《ま》のあたり見るが如し。君の御馬前に天晴《あつぱれ》勇士の名を昭《あらは》して討死《うちじに》すべき武士《ものゝふ》が、何處に二つの命ありて、歌舞優樂の遊に荒《すさ》める所存の程こそ知られね。――弓矢の外には武士の住むべき世ありとも思はぬ一徹の時頼には、兎角|慨《なげか》はしく、苦々《にが/\》しき事のみ耳目に觸れて、平和の世の中《なか》面白からず、あはれ何處にても一戰《ひといくさ》の起れかし、いでや二十餘年の風雨に鍛へし我が技倆を顯はして、日頃我れを武骨物《ぶこつもの》と嘲りし優長武士に一泡《ひとあわ》吹かせんずと思ひけり。衆人醉へる中に獨り醒むる者は容《い》れられず、斯かる氣質なれば時頼は自《おのづ》から儕輩《ひと/″\》に疎《うとん》ぜられ、瀧口時頼とは武骨者の異名《いみやう》よなど嘲り合ひて、時流外《なみはづ》れに粗大なる布衣を着て鐵卷《くろがねまき》の丸鞘を鴎尻《かもめじり》に横《よこた》へし後姿《うしろすがた》を、蔭にて指《ゆびさ》し笑ふ者も少からざりし。

            *        *
       *        *

 西八條の花見の宴に時頼も連《つらな》りけり。其夜|更闌《かうた》けて家に歸り、其の翌朝は常に似ず朝日影|窓《まど》に差込む頃やうやく臥床《ふしど》を出でしが、顏の色少しく蒼味《あをみ》を帶びたり、終夜《よもすがら》眠らでありしにや。
 此夜、御所の溝端に人跡絶えしころ、中宮の御殿の前に月を負ひて歩むは、紛《まが》ふ方なく先の夜に老女を捉へて横笛が名を尋ねし武士なり。物思はしげに御門の邊を行きつ戻りつ、月の光に振向ける顏見れば、まさしく齋藤瀧口時頼なりけり。

   第四

 物の哀れも是れよりぞ知る、戀ほど世に怪しきものはあらじ。稽古の窓に向つて三諦止觀《さんたいしくわん》の月を樂める身も、一|朝《てう》折りかへす花染《はなぞめ》の香《か》に幾年《いくとせ》の行業《かうげふ》を捨てし人、百夜《もゝよ》の榻《しぢ》の端書《はしがき》につれなき君を怨みわびて、亂れ苦《くるし》き忍草《しのぶぐさ》の露と消えにし人、さては相見ての後のたゞちの短きに、戀ひ悲みし永の月日を恨みて三|衣《え》一|鉢《ぱつ》に空《あだ》なる情《なさけ》を觀ぜし人、惟《おも》へば孰《いづ》れか戀の奴《やつこ》に非ざるべき。戀や、秋萩《あきはぎ》の葉末《はずゑ》に置ける露のごと、空《あだ》なれども、中に寫せる月影は圓《まどか》なる望とも見られぬべく、今の憂身《うきみ》をつらしと喞《かこ》てども、戀せぬ前の越方《こしかた》は何を樂みに暮らしけんと思へば、涙は此身の命なりけり。夕旦《ゆふべあした》の鐘の聲も餘所《よそ》ならぬ哀れに響く今日《けふ》は、過ぎし春秋《はるあき》の今更《いまさら》心なきに驚かれ、鳥の聲、蟲の音《ね》にも心|何《なに》となう動きて、我にもあらで情《なさけ》の外に行末もなし。戀せる今を迷《まよひ》と觀れば、悟れる昔の慕ふべくも思はれず、悟れる今を戀と觀れば、昔の迷こそ中々に樂しけれ。戀ほど世に訝《いぶか》しきものはあらじ。そも人、何を望み何を目的《めあて》に渡りぐるしき戀路《こひぢ》を辿るぞ。我も自ら知らず、只々朧げながら夢と現《うつゝ》の境を歩む身に、ましてや何れを戀の始終と思ひ分たんや。そも戀てふもの、何《いづ》こより來り何こをさして去る、人の心の隈は映《うつ》すべき鏡なければ何れ思案の外なんめり。
 いかなれば齋藤瀧口、今更《いまさら》武骨者の銘打つたる鐵卷《くろがね》をよそにし、負ふにやさしき横笛の名に笑《ゑ》める。いかなれば時頼、常にもあらで夜を冒《をか》して中宮の御所《ごしよ》には忍べる。吁々いつしか戀の淵に落ちけるなり。
 西八條の花見の席に、中宮の曹司横笛を一目見て時頼は、世には斯かる氣高《けだか》き美しき女子《をなご》も有るもの哉と心|竊《ひそか》に駭きしが、雲を遏《とゞ》め雲を※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、14−5]《めぐら》す妙《たへ》なる舞の手振《てぶり》を見もて行くうち、胸怪《むねあや》しう轟き、心何となく安からざる如く、二十三年の今まで絶えて覺《おぼえ》なき異樣の感情|雲《くも》の如く湧き出でて、例へば渚《なぎさ》を閉ぢし池の氷の春風《はるかぜ》に溶《と》けたらんが如く、若しくは滿身の力をはりつめし手足《てあし》の節々《ふし/″\》一時に緩《ゆる》みしが如く、茫然として行衞も知らぬ通路《かよひぢ》を我ながら踏み迷へる思して、果は舞《まひ》終り樂《がく》收まりしにも心付かず、軈て席を退《まか》り出でて何處ともなく出で行きしが、あはれ横笛とは時頼其夜初めて覺えし女子の名なりけり。
 日來《ひごろ》快濶にして物に鬱する事などの夢にもなかりし時頼の氣風|何時《いつ》しか變りて、憂《うれ》はしげに思ひ煩《わづら》ふ朝夕の樣|唯《ただ》ならず、紅色《あかみ》を帶びしつや/\しき頬の色少しく蒼ざめて、常にも似で物言ふ事も稀になり、太息《といき》の數のみぞ唯ゝ増さりける。果は濡羽《ぬれは》の厚鬢《あつびん》に水櫛當《みづぐしあて》て、筈長《はずなが》の大束《おほたぶさ》に今樣の大紋《だいもん》の布衣《ほい》は平生の氣象に似もやらずと、時頼を知れる人、訝しく思はぬはなかりけり。

   第五

 打つて變りし瀧口が今日此頃《けふこのごろ》の有樣に、あれ見よ、當世嫌ひの武骨者《ぶこつもの》も一度は折らねばならぬ我慢なるに、笑止や日頃《ひごろ》吾等を尻目に懸けて輕薄武士と言はぬ計りの顏、今更|何處《どこ》に下げて吾等に對《むか》ひ得るなど、後指《うしろゆび》さして嘲り笑ふものあれども、瀧口少しも意に介せざるが如く、應對等は常の如く振舞ひけり。されど自慢の頬鬢|掻撫《かいな》づる隙《ひま》もなく、青黛の跡絶えず鮮かにして、萌黄《もえぎ》の狩衣《かりぎぬ》に摺皮《すりかは》の藺草履《ゐざうり》など、よろづ派手やかなる出立《いでたち》は人目に夫《それ》と紛《まが》うべくもあらず。顏容《かほかたち》さへ稍々|窶《やつ》れて、起居《たちゐ》も懶《ものう》きがごとく見ゆれども、人に向つて氣色《きしよく》の勝《すぐ》れざるを喞ちし事もなく、偶々《たま/\》病などなきやと問ふ人あれば、却つて意外の面地《おももち》して、常にも増して健かなりと答へけり。
 皆是れ戀の業《わざ》なりとは、哀れや時頼未だ夢にも心づかず、我ともなく人ともあらで只々思ひ煩へるのみ。思ひ煩へる事さへも心自ら知らず、例へば夢の中に伏床《ふしど》を拔け出でて終夜出《よもすがらやま》の巓《いたゞき》、水の涯《ほとり》を迷ひつくしたらん人こそ、さながら瀧口が今の有樣に似たりとも見るべけれ。
 人にも我にも行衞知れざる戀の夢路をば、瀧口何處のはてまで辿りけん、夕とも言はず、曉とも言はず、屋敷を出でて行先は己れならで知る人もなく、只々|門出《かどで》の勢ひに引きかへて、戻足《もどりあし》の打ち蕭《しお》れたる樣、さすがに遠路の勞《つかれ》とも思はれず。一月餘《ひとつきあまり》も過ぎて其年の春も暮れ、青葉の影に時鳥《ほとゝぎす》の初聲聞く夏の初めとなりたれども、かゝる有樣の悛《あらた》まる色だに見えず、はては十幾年の間、朝夕樂みし弓馬の稽古さえ自《おのづか》ら怠り勝になりて、胴丸《どうまる》に積もる埃《ほこり》の堆《うづたか》きに目もかけず、名に負へる鐵卷《くろがねまき》は高く長押《なげし》に掛けられて、螺鈿の櫻を散らせる黒鞘に摺鮫《すりざめ》の鞘卷《さやまき》指《さ》し添ヘたる立姿《たちすがた》は、若《も》し我ならざりせば一月前《ひとつきまへ》の時頼、唾も吐きかねざる華奢《きやしや》の風俗なりし。
 されば變り果てし容姿に慣れて、笑ひ譏《そし》る人も漸く少くなりし頃、蝉聲《せみ》喧《かまびす》しき夏の暮にもなりけん。瀧口が顏愈々やつれ、頬肉は目立つまでに落ちて眉
前へ 次へ
全14ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高山 樗牛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング