悟れ、一瞬の須臾なるも、千歳の久しきも、天地の無※[#「窮」の「弓」に代えて「呂」、242−下−4]なるに比すれば等しく是れ一刹那なるにあらずや。名、其の死と共に滅するも、死後千年を經て亡ぶるも、其の終りあるに至つては一なり。人、生を此世に享け、此一時の名を希ふ、五十年の目的、遂に之に過ぎざるか。予甚だ之に惑ふ。
 功名朝露の如し、頼むべからず、人生|終《つひ》に奈何。藐然《ばくぜん》として流俗の毀譽に關せず、優游自適其の好む所に從ふ、樂は即ち樂なりと雖も、※[#「虫+惠」、第4水準2−87−87]蛄草露に終ると孰《いづ》れぞや。栖々遑々、時を匡《たゞ》し道に順《したが》ひ、仰いで鳳鳴を悲み、俯して匏瓜を嘆ず、之を估《う》りて售《う》れざらんことを恐れ、之を藏めて失はんことを憂ふ、之れ正は即ち正なりと雖も、寧ろ鳥獸の營々として走生奔死するに等しきなきか。光を含み世に混じ、長統の跡を尋ね劉子の流を汲み、濁醪一引、俯して萬物の擾々焉たるを望むは、快は即ち快なりと雖も、醉生夢死、草木と何ぞ擇ばん。吁、人は空名の爲に生れたるか、將《は》た行樂せんが爲に生れたるか。果して然らば是れ夸父《くわふ》日を追ふの痴を學ぶにあらざれば、禽獸草木と其命を等しうせんとするものなり。予甚だ之に惑ふ。
 南華老人は言へらく、大覺ありて其の大夢なるを知ると。佛氏は諭すらく、離慾の寂靜は四諦を悟る所以なりと。已《や》めよ、若し人生を以て夢となさば、迷へるも悟れるも、等しく是れ夢にあらずや。縱ひ身を觀じて岸頭籬根の草とし、命を論じて江邊不繋の船となすも、期する所は一の墓門にあらずや。生前の事業、夢中の觀の如く、死後の名聞、草露の如くんば、茫然たる吾が生、夫れ何くにか寄せん、大哀と謂はざるべけんや。嗚呼人生終に奈何。予、往を顧み來を慮り、半夜惘然として吾れ我れを喪《うしな》ふ。
[#地から2字上げ](明治二十四年六月)



底本:「日本現代文學全集 8」講談社
   1967(昭和42)年11月19日発行
入力:三州生桑
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年2月3日作成
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