であります。
 それから、古い四天王をあてがって彫らして見ると、すぱすぱとこなしてなかなか達者ですが、こういう性質の子供は学校に入れ、正式に勉強させた方が好かろうと思い、美術学校へ入学させました。もっとも、これは秦源祐翁の方で都合して学資をこしらえてやったのであります。卒業後もトントン拍子に何かと都合よく行ったらしく、今日は美術学校の木彫部《もくちょうぶ》の助教授となっています。帝展に数度出品して特選になり立派な技術家です。それから、今一人、私の弟子には違いないが、家筋からいえば私の師匠筋の人――私の師匠東雲師の孫に当る高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。この人のことは、前に東雲師歿後の高村家のことを話した処でいい置きましたから略します。
 それから、現在のことにわたりますが、ついこの間まで家にいた吉岡宗雲君は、京都|高辻《たかつじ》富小路《とみのこうじ》の仏師の悴で、今は郷里に帰っており、次に奈良多門町の大経師《だいきょうじ》の悴で、鏑木寅三郎君は紫雲と号す。これは昨年卒業し、現在府下滝の川の自宅にて勉強しつつあります。
 その次に、九州|久留米《くるめ》出生で、上野義民というのは卒業をして後、今日私の工場に通勤して盛んに働いております。
 また、今一人は山口県|小郡《おごおり》町仏師田坂雲斎氏の甥《おい》で、田坂源次号柏雲といい、これは最早近々卒業、なかなか勉強家で、本年の帝展出品製作も盛夏の頃より夜業に彫刻して首尾よく入選しました。
 このほかに茨城県|稲田《いなだ》出生の小林三郎、これはまだ本の初めでありますから名前だけ記して置きます。
 こう数えて来ると、西町時代から今日まで、随分歳月も長く、弟子としての人数も多いことで、おおよそ六十名もありますが、その中には名の落ちた人もありましょう。有為の材を抱いて若死にしたものもあります。また天性に従って一家を為《な》した人もあります。こういう人々の身の上を思えば、決してまた他事《ひとごと》でなく、自分が十二歳の時に蔵前《くらまえ》の師匠の家に行き、年季奉公を致した時から以来のことなども思い合わされ、多少の感慨なき能《あた》わずともいわばいわれます。それに師匠といい、弟子と申し、共に縁あってこそ、かくは一つ家根《やね》に住み、一つ釜《かま》の御飯をたべ、時には苦労を共にし、また楽しみをも共にし、ひたすらお互いに斯道
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