の目的も多少果たされ、また私の年もようやく老い、同時に学校の仕事も責任が重く忙しくなったりして、弟子の面倒を見る暇もなくなりましたことで、弟子のまた弟子が出来て、子弟の面倒はその方でも事足る時代ともなったので、ひとまず一段落着いたのでありました。
 しかし、それでも、拠所《よんどころ》ない場合で、弟子を断わり切れぬので両三人また弟子を置くようになりました。これは私の仕事の手伝いをするものが一人もないのは不自由で、大きな材を切ったりするのは、年の若いものに限りますことで、年|老《と》ってからぽつぽつ丹精した弟子がまた多少出来ました。
 田中郭雲君は、その時代の弟子で、横浜の実業家|上郎《じょうろう》清助氏の世話で来た人です。この人は元郷里山口で大工をしていたので、朝鮮に行き木工をやっていた時に、米原雲海君の作の旅人というのを写真で見て模刻したのが最初で、実は上郎清助氏が鋳金家の山本純民君をたのみ、右の模刻を私に見てもらいに来て、「これ位の仕事をするものが将来彫刻家となる素質があるものかどうでしょうか」という妙な質問を受けたので、それを見ると、相当出来ているので、「これ位なら、勉強次第物にならぬとはいえません」と答えたのが、何かの間違いで、当人へ弟子入りを承諾したように受け取られ上郎氏の細君が当人を伴《つ》れて見えたので、今さら否《いや》ともいえず、弟子にしたわけでした。この人は私の家を去ってからも上郎氏の後援もあることで、まず仕合わせの好い方の人であります。非常な勉強家で帝展へ三度出品して三度入選しました。
 関野聖雲君、神奈川県の人、小供の時から物を彫ることが好きで神童のようにいわれていたのを県の書記官の秦《はた》氏に見出《みいだ》され、その人から博物館長の股野氏にたのみ、同氏より溝口《みぞぐち》美術部長を介して私の門下となったのです。当時私は、「子供の時に郷里で名を謳《うた》われたりしても、これを鼻にかけるようなことがあってはならぬ。子供の時に褒《ほ》められたものも、本当にその道の門に這入れば、その時の作など黒人《くろうと》側からは何んでもないのであるから、決して子供の時のことを頭に置いてはいけない。その頭が取れないでは決して上達しないから、能《よ》く気を附けねばならぬ」
といって聞かせました。これは本人がまだ十四歳の時で子供ですから、子供のようにいって聞かせたの
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